言葉がつくる男と女
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はことばとアイデンティティの関係について考えてみましょう。
よく使う語彙の1つがこのアイデンティティです。
なんとなくわかっているものの、きちんとは答えられない謎の単語です。
よく自己同一性と訳されます。
自分がどういう人間なのかを、どこまで認識しているのかということです。
大きな集合体の属性から、次第に細かな集合の内側にまで輪をかけていくのです。
そこに残ったものが、あなたという人間の核心だというワケです。
日本語は難しいですね。
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男性と女性の話す表現の形が全く違うのです。
世界中のことばを綿密にしらべてみたらどんな結果がでるのか。
実に興味があります。
試みに英語の場合を考えてみましょう。
人間は自分の性別を気にしながら、ことばを発すると考えるのが普通でしょう。
女の子のくせにそんな言葉遣いをするもんじゃありません。
母親にこう言われたことはありませんか。
女の子みたいなしゃべり方をするのね。
反対にこういうケースもあります。
まさにジェンダーの問題です。
最近はそれほどに男女の差がなくなってきたとはいえ、日本語では明らかに表現の違いがあります。
とくに人称詞と呼ばれる表現が、日本語には豊富なのです。
人称詞と文末詞
英語ならば全て自分のことは「I」ですみます。
話し手の性別を気にすることはありません。
ところが日本語では、私、わたくし、吾輩、ぼく、おれ あたしなどと実にたくさんあります。
「私」と「僕」とではかなりことばのニュアンスが違いますね。
同じ表現でも「僕」を「ぼく」と書くとまた雰囲気がガラリと変化してしまいます。
「わたし」と「わたくし」も明らかに違いますね。
二人称の「You」についても同様なことが言えます。
「彼」と「彼女」は英語を学ぶようになって覚えました。
日本語では「あの人」くらいが通常の使い方だったのではないでしょうか。
三人称の言い方はかなり曖昧です。
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会話の場合、男女の表現の末尾が違うケースが多いですね。
以前ほどの差がなくなったとはいえ、今でも厳然と使い方に差があります。
文末詞と呼ばれるものです。
これが変化すると、会話の情景が大きく変化してしまうのです。
時代によって差があるものの、男性型に分類される文末詞には「だぜ」「だろ」「だぜ」「よな」「だい」「だな」「だよ」などがあります。
一方、女性型に分類されるのは、「わよ」「わ」「ね」「よね」「のね」「なのよ」「のよ」「ね」「だもん」「でしょ」などです。
多くの日本人は、これらをうまく合わせながら、会話をつくりあげています。
幼い男の子などは幼稚園に入ってしばらくすると、それまで自分の名前を連発していたのに、急に「俺が~だぜ」などと言い出して、親を驚かせたりもします。
テレビでは女性の言葉遣いを使う男性のタレントを、よく見かけることもあります。
その話し方に独特のキャラクターを感じ、人気が出たりもするケースもあるのです。
ことばとジェンダー
今回は言語学者、中村桃子氏の文章を読んでみます。
多彩なメディアの言葉遣いから、言語とジェンダーの関係、言語行為によるアイデンティティの構築について研究している人です。
私たちは、言葉を微妙に使い分けて、内容以外の多くの情報を相手に伝えています。
しばらく聞いていると、会話のなかに登場してくる人物の様子をある程度、想像することができます。
ちなみに性の属性に基づいて言語行為を行うことを「本質主義」といいます。
その反対にアイデンティティを言語行為を通して、作り上げていくという考え方を「構築主義」といいます。
どちらがより私たちの本質に近いのでしょうか。
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難しいテーマです。
フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールの有名な著作『第二の性』のなかに「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というのがあります。
「女性らしさ」とは、社会的につくられた約束事にすぎないのだという意味です。
社会の中心はあくまでも男性で、女性は男性に従う「第二の性」とされていると主張したのです。
ここからフェミニズムの運動が始まったのはよく知られています。
それもこれも自分自身のアイデンティティを、人間はどう確立していくのかという難解な問題とリンクしているのです。
実際に私たちはどのようにして生きているのでしょうか。
そのプロセスを考えてみましょう。
本文
私たちは、どのようにしてアイデンティティを表現するのか。
何もないところから表現することはできない。
材料が必要である。
実は「女言葉」や「男言葉」は、この材料の1つなのだ。
私たちが言語行為の中で、自分や聞き手のアイデンティティをつくりあげるときに利用する言語資源なのである。
和たちは、子供の頃から「女言葉」や「男言葉」を話す人物が登場する小説、テレビドラマ、映画、広告、マンガ、アニメに接することで、何が「女/男言葉」であるのかという知識を獲得している。
「女/男言葉」だけではない。
これらのメディアには、さまざまに異なる年齢、職業、出身地域、階級によって区別された集団のカテゴリーと結びついた言葉遣いの情報があふれている。
これら特定の言葉遣いと特定の集団の結びつきは、指標性と呼ばれる。
私たちは、言語行為において、これらの指標性に関する知識を使ってアイデンティティをつくりあげるのである。
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もちろん、私たちがアイデンティティを表現するときに利用する資源は言語に限らない。
服装や髪型、しぐさや行動なども重要な資源である。
しかし、これらの資源が利用できるのも、言語と同じように、すでに意味と結びついているからである。
「セーラー服」を、その人が「女子高生」であることを示すために利用できるのは、すでに「セーラー服」と「女子高生」のアイデンティティが結びついているからである。
この意味では、服装や髪型も広い意味での「言葉」と類似したはたらきをしていると考えられる。(中略)
ここまで読んできて、賢明な読者は、なぜ服装や言葉がアイデンティティと結びつくのか推測できるだろう。
悲しいかな人間は、「アイデンティティ」のような抽象的イメージを直接伝えあうことができない。
五感で認識できるものをとおして表現しなければならないのである。
その中でも「言葉」は、もっとも体系化され誰でもが利用することのできる資源である。
服は持っている人しか利用することができない。
まさに人間が、音声や文字という具体物をとおして意味を表現する「言語」を発達させてきたゆえんである。(性と日本語 ことばがつくる女と男)
ことばの獲得
ことばをどう手に入れたきたのかということを考えていけば、必ずその人の核心にせまることができます。
それが言語学なのです。
特にジェンダーとことばとの関係は、これからも研究が進んでいくにちがいありません。
性差と日本語という言葉との関係を追いかけていけば、必ずこの言語の持つ特性を捕まえられるはずです。
さらにいえば、より魅力的な言語環境のなかで、ふるまうことができます。
ことばを獲得していくプロセスそのものが、アイデンティティの獲得とリンクしていることは明らかだからです。