【芥川龍之介】黒澤明監督の映画・羅生門の原作は全く別の短編だった

小説『羅生門』

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師のすい喬です。

今までいくつか教科書で教えてきた作品を取り上げました。

また全く扱ったことのない小説もテーマにしました。

いずれも名作ばかりです。

高校に入学して一番最初にやる小説は何かといえば、定番中の定番、芥川龍之介の『羅生門』です。

もちろん最初は随想や随筆のようなものでお茶を濁します。

なにしろ学期初めは行事が多いですからね。

身体検査をやったり、オリエンテーションをやったり。

あまり授業時間が確保できないのです。

そんなわけで、名前ばかりの中間テストを終えてから、本格的な授業に入ります。

その最初の小説が『羅生門』というワケです。

何度やりましたかね。

頭の中にほとんど全部のシーンが入っています。

どこを板書して、どこを試験に出せばいいのか。

全部インプットされちゃったというわけです。

仕事というのは怖いもんですね。

ストーリーを覚えていますか。

時は平安時代。

ある暮れ方、荒れ放題の羅生門の下で若い下人が途方に暮れています。

下人は数日前に解雇され、盗賊にでもなるしか生きる方法がないところまで追い詰められています。

しかしどうしてもそのための勇気が出ないのです。

ふと羅生門の2階に人の気配を感じ上へ昇ります。

そこには遺体がいくつも捨てられていました。

灯りがともっています。

老婆が若い女の遺体から髪を引き抜いていました。

下人は刀を抜き、老婆に襲いかかります。

老婆は、抜いた髪で鬘を作って売ろうとしていたのです。

そうしなければ生きていけないと呟きます。

ここにいる死人たちは、みな同じようなことをしていた。

今自分が髪を抜いたこの女も、生前に蛇の干物を干魚だと偽って売り歩いていた。

みな生きるために仕方がなく行ったことだ。

だから自分が髪を抜いたとて、この女は許すであろうというのが老婆の理屈でした。

下人は話を聞いているうちに自分もやらなければ生きていけないと告げ、老婆の着物を盗んで闇の中へ消えていくのです。

最後に追い剥ぎをして逃げる下人の姿が、今でも目の前に見えるようです。

数年後から国語のカリキュラムも随分とかわるようですが、おそらくこの教材は生き残ると思います。

それくらいインパクトのある作品です。

善と悪というものが、そう簡単には決められないという人間の倫理を語った名作でしょう。

人はその立場によってものの見方がかわっていくものなのです。

事実はいつの間にか形をかえ、人の道徳観を変質させていきます。

ここがこの作品の怖さでもあるのです。

映画の原作

映画「羅生門」は1950年に公開された日本映画です。

監督は黒澤明、出演は三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬など。

日本映画の中でも指折りの名作です。

ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞しました。

その映像感覚の鋭さから「世界のクロサワ」と呼ばれることになったきっかけがまさにこの映画でした。

その後、世界の有名な映画監督たちに強い影響を与えました。

黒澤明の名前を知らない関係者はいないと思います。

「七人の侍」「生きる」「椿三十郎」など、タイトルくらいは聞いたことがあるでしょう。

一度ご覧になってください。

実はこの作品のことをなぜブログで取り上げようとしたのかというと、生徒の電話がきっかけなのです。

教科書に載っていないこの作品を、別刷りにして授業でやった時のことを嬉しそうに話してくれました。

最初そういえば、そんなこともあったのかという程度でしたが、次第にはっきりと記憶が蘇ってきました。

映画「羅生門」の原作は小説『羅生門』とは違います。

全く全てが違うということではないのですが、ほとんどの部分は芥川龍之介の短編『藪の中』からとられています。

個人的にはこちらの作品の方がインパクトは強いと思います。

しかし教科書に載せなかったのは、そこに殺人とか姦淫などといった、反道徳的な行為が赤裸々に描かれているからでしょう。

高校に入ったばかりの生徒には、やや刺激が強すぎるのかもしれません。

ぼくとしてはむしろこの『藪の中』を教科書に所収してもらいたかったです。

その後国語表現などの授業で何度か映画を見せました。

モノクロでありながら、光の映像が見事です。

それだけで、この映画の価値があると思います。

「藪の中」という表現は聞いたことがありますよね。

よく使いますね。

多くの人がいろいろなことを言って、結局真相がわからなくなってしまうことをさします。

元はこの小説のタイトルから来ているのです。

この作品は皆が1つの事件について証言したことをまとめたものです。

しかし結局事実を重ねたとはいうものの、真実がどれかわからないという不思議な構成になっています。

あらすじ

藪の中から男の死体が見つかります。

現在の裁判官にあたる検非違使が捜査を行いました。

しかし真相がはっきりしないのです。

男とその妻が一緒に歩いているところを、妻に一目ぼれした多襄丸が乱暴しようと企てたところから話は始まります。

男に儲け話があると騙して藪の中に呼び寄せます。

しかしその後の証言は全く食い違っています。

多襄丸が言うには、女に乱暴するためにまず男を竹藪へと呼び出して、不意を突いて気絶させて縄で縛り、女を男の前で乱暴しました。

すると女は「二人の男に恥を見せるのは死ぬよりつらい、戦って生き残った方と添い遂げたい」と言ったので、多襄丸は堂々と戦って男を刺し殺したというのです。

しかしその間に女は逃げてしまいました。

男の妻が言うには、多襄丸に乱暴された時に夫に侮蔑の目で見られたショックで失神し、気づくと多襄丸はいなくなっていたのです。

縛られたまま残されていた夫に「こうなっては生きていけない、共に死にましょう」と夫を刺したのですが、そこで再び気絶し、次に目覚めた時には夫は既に死んでいました。

自分も後を追おうとしたものの死にきれずに、ふらふらと歩いているうちに清水寺へとたどり着きました。

死んだ男の霊が乗り移った巫女は、自分が縛られた後に多襄丸の「俺の妻になれ」という誘惑に妻が乗り、妻は男を殺すよう多襄丸に懇願しました。

それを聞いた多襄丸は心変わりし、何もせずに男を解放して立ち去ります。

残された夫は自分の胸を妻の小刀で刺して自害しました

最後に多襄丸は、女に乱暴するためにまず男を竹藪へと呼び出して不意を突いて気絶させて縄で縛り、女を男の前で乱暴したと証言します。

皆がみな、自分の目の前で起こったことを語ります。

しかしそれが全て違う。

この中に真実があるのかどうか。

それさえもよくわかりません。

この状況をそれぞれの証言を元にして映像化していったというのが、この映画の流れです。

真実は本当にあるのかどうか。

これほどに読者を悩ませる短編も珍しいのではないでしょうか。

読みたい方はすぐに青空文庫で読めます。

タイトルと作者名を検索すれば、ありがたいことに全てその場で読めるのです。

いい時代になりました。

事実とは何か

今の時代ほど、事実というものがどこにあるのかわからなくなっている時代はないのではないでしょうか。

ある意味、自分に都合が悪ければ、フェイクだといって逃げることもできるのです。

どの立場からみるかということで、全てがかわってしまうのが現在です。

そういう意味からいえば、実にこの作品は怖ろしい予見にみちたものだと言わざるを得ません。

芥川龍之介に先見の明がありすぎたのか、それを映画化した黒澤明にあったのか。

今となってはわかりません。

芥川は「漠然とした不安」があるといって、1927年(昭和2年)に36歳で服毒自殺をしました。

夏目漱石最後の弟子といわれています。

短編『鼻』を書いてもっていった時、漱石は激賞し、こういう作品をいくつか書いたら、きみは日本でも有数の作家になれると言ったそうです。

その資質を見抜いていたのでしょうね。

あまりにも先がよめるということも、幸せではないのかもしれません。

是非、これを機会に一度作品に触れてみてください。

小説もよし、映画もよし。

事実と真実とは明らかに違います。

それを見る立場が事実をかえ、真実を変質させるのです。

非常にデリケートなテーマだと思います。

最後までおつきあいいただき、どうもありがとうございました。

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