最古の長編
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
日本で最も古い物語はといったらすぐに『竹取物語』が脳裡に浮かびますね。
確かにその通りです。
しかし『竹取物語』は中編小説にあたります。
これからとりあげる『宇津保物語』は10世期末前後に成立したとされる日本最古の長編物語なのです。
この物語以前に成立した物語には『伊勢物語』『大和物語』という歌物語があり、『宇津保物語』以後には『源氏物語』があります。
作者は平安中期の歌人で三十六歌仙の一人、源順(みなもとのしたごう)と考えられています。
しかしはっきりとはわかっていません。
『宇津保物語』は「俊蔭」「藤原君」「嵯峨院」の3巻がはやい時期に原型として出来上がっていたのではないかと考えられています。
おそらく一人だけで書かれたものではないのでしょう。
この作品は全20巻から成立し、2編6部構成になっている大長編です。
「うつほ」というタイトルの意味がわかりますか。

「洞(うつほ)」は木の洞(ほら)というところからきています。
巻1「俊蔭」の中で俊蔭の娘とその子仲忠が俊蔭の死後生活が苦しくなり、山中にある杉の木の洞で暮らしていたことが書名の由来なのです。
母子が住んでいたのは現在の京都市の北山周辺だとされています。
全体の構成は3世代にわたる複雑なものです。
前半は古典的な求婚を主軸とした話が展開され、次に政争の話へと移ります。
全体を通して秘伝である琴の演奏を伝えるというテーマが主軸になっています。
平安時代の王朝文学において「楽器」は重要な意味を持っていました。
貴族のたしなみとして、和歌と楽器の才が最も重要でした。
男性は主に笛、琵琶、琴が多く、女性は箏を演奏することが主流だったのです。
ここにあげた文章は、仲忠が16歳で元服し、その優れた才能が帝に知られることになった大切な場面です。
仲忠が俊蔭から三代にわたって伝えられた琴の才能を受け継ぐ人物であることが、明らかになる点がキーポイントなのです。
本文
十六といふ年、二月にかうぶりせさせたまひて、名をば仲忠といふ。
上達部の御子なれば、やがてかうぶり賜ひて、殿上せさせ、上も東宮も、召しまつはしうつくしみたまふ。
上、大将に「いづくなりし人を、かうにはかに、いと優にては取り出でられたるぞ」と問はせたまへば、(兼雅)「年ごろははべるところも知りたまへざりし、ひととせ見いでてはべり。
ものなど少し心得てのち、交らひはせむと申ししかば、さもはべることなりとて、籠めはべりつるなり」と奏したまふ。
(帝)「たが腹ぞ」と問はせたまへば、(兼雅)「故治部卿俊蔭が娘の腹にはべり」と申したまへば、上おどろかせたまひて、(帝)「いかにぞ。三代の手は伝へたらむな。
かの朝臣、唐土もろこしより帰り渡りて、嵯峨の院の御時、『この手少し伝へよ』と仰せられければ、『ただ今大臣の位を賜ふとも、え伝へ奉らじ』と奏しきりてまかでにしより、参らで、中納言になるべかりし身を沈めてし人なり。

さるはいみじき有職なり。
ただ娘一人ありける。
年七歳より習はしけるに、父の手にいと多くまさりて弾きければ、父、『この子はわが面起こしつべき子なり。これが手よりたれもたれも習ひ取れ』
となむ言ひけると聞きしかば、俊蔭がありしときに消息などして、亡くなりてのち、尋ね訪ひしかど、亡くなりにたりしと聞きしは、そこに隠されたるにこそありけれ。
いと興ありや。
かの手は、三代はましてかしこからむとのたまはすれば、大将、(兼雅)「さはベるべけれど、殊なることもはべらざるべし。代々のついでとして、一手二手などもや仕うまつらむ」と奏したまふ。
「注」
大将 右大将藤原兼雅 仲忠の父にあたる人
現代語訳
16歳になった年の2月に、元服をさせなさって、名を仲忠とつけました。
上達部の御子であるため、そのまま官位を授かり、従五位下として昇殿させ、帝も東宮も、おそばにお召しになり、かわいがりなさったのです。
帝は大将(兼雅)に「どこにいた人をこのように、急にたいそう優れたものとして連れ出して来られたのか」とお尋ねになると、
兼雅は「長年消息もわからなかったのですが、昨年見つけ出しました。作法など少しばかり身につけさせた後、宮仕えさせようと母が申しましたので、それもそうだと思い、外に出さずにいたのです」と奏上なさる。

「誰の産んだ子なのだ」とお尋ねになるので「亡き治部卿、俊蔭の娘の子でございます」と申し上げると、帝はたいそう驚きなさり、
「なんと、それでは三代の手が伝承されたのだな。あの俊蔭の朝臣は唐より帰り、嵯峨院の御代に『この琴の手法を少し伝授せよ』と帝がおっしゃったところ、
『今すぐ大臣の位を授かろうとも、伝授申し上げることはできません』と奏上したまま退出して、二度と参内せず、中納言になって当然であった身を不意にしてしまった人なのだよ。それにしてもすぐれた学識のある者であったことよ。
たった一人娘がおり、7歳の時から琴を習わせていたが、父の手法よりたいそう勝って演奏するので、父は『この子は私の面目を立ててくれる子だ。この子から皆琴の手法を習いとれ』と言ったと聞いていたものだが。
その俊蔭が存命の時には使者を送ったりしていたが、無くなった後、その行方を捜させたが、死んでしまったと聞いていた。
それではそなたが隠していたのだな。
たいそう興味深い。
あの琴の手法は三代目となれば、さらに優れているのであろうとおっしゃると、大将(兼雅)は「そのはずですが、特別なこともございません。代々伝承された手法として、ひとつふたつはお聞かせできるかもしれません」と奏上なさる。
出生の秘密
この場面では、仲忠の出生の秘密と、琴の才能の系譜が帝の前で明らかになります。
特に重要なのは、単に「親から子へ才能が受け継がれた」というだけではない点です。
俊蔭は、唐土から帰国した際に、帝から琴の秘技を伝えるよう求められても拒否してしまいました。
それほど琴の技を特別なもの、簡単には人に伝えてはならないものとして扱っていたのです。
ところが、その俊蔭が娘には琴を教え、その娘はなんと父以上の技を身につけることになったのです。
さらに、その娘から仲忠へと才能が受け継がれていきます。
この場面では、「秘伝の技が三代にわたって継承され、ついに仲忠という卓越した人物に結実する」という構図が示されています。
帝が仲忠の出生を知って驚くのは、単に身分の低い母から生まれたことに驚いたのではありません。
俊蔭という伝説的な琴の名手の血を引いていることが判明したからです。
そして最後に大将が「一手二手などもや仕うまつらむ」と控えめに答えるところには、仲忠の才能をまだ世間にすべて明らかにしていないという含みがあります。
ここがこれ以降、仲忠の琴の才能がどのように世に示されていくのか、という展開への伏線にもなっているのです。
全体にわたって複雑な話ですが、琴の演奏に関わる秘伝の技の継承という主題をポイントに読んでいけば、ストーリーが理解できると思います。
なぜこの親子に琴の秘伝が伝えられたのでしょうか。

そのルーツは俊蔭が16歳の頃、遣唐使の一員として渡唐したことから始まります。
ところが暴風雨によって波斯国の渚に流れ着き、そこで仙人から琴の演奏を伝授されたとあります。
このあたりがやや伝奇的な物語の書き方ですね。
聞いたこともない波斯国(はしこく)という名称が、昔の人の心をとらえたのでしょうか。
現在のイランおよびその周辺にあったペルシア(波斯)地域を指す呼び名だと言われています。
やがて琴の伝授は俊蔭からその娘(俊蔭女)に伝えられ、その後は主人公である仲忠に伝授されていきます。
仲忠への伝授は、北山杉の洞に住んでいた頃に母から子へと伝えられます。
話が少し荒唐無稽のような気もしますが、これも関心を引いたのかもしれません。。
当時楽器の技の伝授は秘められた環境で行われ、伝授そのものにとても重要な意味があったと言われています。
仲忠は嵯峨院と朱雀院の御前で秘琴を披露し、やがて終盤を迎えるのです。
後の『源氏物語』などと比べると、ストーリーの構成が荒く理解しずらい点も多々あるのは否めません。
しかしこうした作品が古来から日本にあったということを覚えておいてください。
チャンスがあったらぜひ、一読することをお勧めします。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

