癇癖談(くせものがり)
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今日はちょっと辛口の文章を取り上げます。
『癇癖談』(くせものがたり)は、江戸時代後期の1791年(寛政3年)頃に上田秋成が執筆した随筆です。
いわゆるエッセイというより、少し苦みの交じった風俗時評という印象でしょうか。
没後の1822年に刊行されました。
文章の冒頭が『伊勢物語』の書き出しにそっくりなのです。
「昔、男ありけり」というフレーズを覚えていますか。

パロディ化を意識したのでしよう。
飄逸に文をまとめたという印象が強いですね。
内容には軽い毒があります。
当時の社会風俗や世間の流行などを風刺しているからです。
しかし読んでいて楽しいです。
作者自身の自己批評をもってしめくくられているので愉快です。
上田秋成と言えば代表作『雨月物語』の作者として有名ですね。
全5巻に9編の作品が収められています。
よく知られているのが「浅茅が宿」「夢応の鯉魚」「蛇性の婬」などでしょうか。
怪異に満ちた話が多いです。
ただ怖いだけではなく、人間性の深部に向けた視点が正確なので、多くの読者を得ました。
溝口健二などによって映画化もされています。
今回の文章は逆説に満ちています。
ただし、批評だけではありません。
今回の段の冒頭には中国の学者たちの話が出てきます。
中国の晋の車胤は家が貧しく、油が買えなかったので、蛍を集めて書を読み、孫康は雪明かりで読書をし、漢の匡衡は壁の穴から漏れる光で勉強したといいます。
あなたはどのような印象を持ちましたか。
そこに学問の本質も顔を覗かせているのです。
本文
昔、翁ありけり。
常のことにいへりけるは、「書をよむは、貧をまねくためなり」とあながちにいはれけり。
蛍の火かげ、雪のひかり、隣の壁のこぼれを頼むたぐひ、多かりけり。
都に、浪華に、書あまた買ひ積みて持たりといふ人も、黄金千枚を費やせし人は、いと稀なりとや。
茶器など、もてあそぶ人は、手に据ゑて見るばかりのものにも、それらの値なるは、いくらも買ひ入れて持ちたるをや。

このためし、今の世のみにあらず、源氏物語にいへる、「家より外にもとめたる装束どものうちあはずかたくなしき姿などをも、恥ぢなく、面もち声づかひ、うべうべしてくもてなしつつ、
座に着き並びたる作法よりはじめて、見も知らぬさまどもなりし」と書きしは、おほやけにつかうまつる儒者たちの、貧しきさまを見るに、あさましとて言へるなり。
また、「田舎より上る書生は、国を出づるより、人の世話にはなりうち、写本は盗むもの、書物は借り取りに返さぬもの、とまづ覚えてる来るなりけり」と、ある師の語られし。
現代語訳
昔、ある老人がいました。
その老人がいつも口にしていたことは、「書物を読むのは、貧乏になるためである」というのです。
蛍の光や雪の明かりを頼りにして勉強したり、隣家の壁に開いた穴から漏れてくる光を頼りに読書したりする人々は、昔からたくさんいました。
しかし京都や大阪で、書物をたくさん買い集めて持っているという人でも、黄金千枚もの大金を費やした人はそれほど多くいません。
ところがです。
茶器などを趣味として愛好する人は、手の上に載せて眺めるだけの品物であっても、相当に高価なものを、いくつも買い集めて持ってる人がいます。

書物にかける費用以上のお金を平気で散財しているのです。
このような例は、今の時代に限ったことではありません。
『源氏物語』の中にこんな話がでてきます。
よその家から借りてきた衣装の組み合わせがちぐはぐで、見苦しい姿であることを恥ずかしがらない学者たちの様子です。
表情や声なども、いかにももっともらしい様子なのですが、座に着いて並ぶ作法をはじめとして、見たこともないようなみっともなさだと紫式部は辛辣に書き記しています。
これは、朝廷に仕える学者たちの貧しい身なりや振る舞いを見て、心底あきれてしまったからでしょう。
また、ある人がこんなことを言いました。
田舎から都へ学問をしにくる若者は、故郷を出るときから、人の世話になるのは当たり前だと考えているのです。
さらに本は写して盗むもの、書物は借りたら返さないものだと、まず覚えてやって来るのだいう話です。
ポイント
上田秋成は学問の持つ大きな価値をけっして侮っていたワケではありません。
しかし学問に熱中する人は経済的に恵まれないことがあるという現実を忘れてはいけないということも書き留めています。
書物を買い集めるにはお金がかかります。
しかし茶器などの趣味の品に、大金を惜しみなく使う人の方がはるかに多くいます。
秋成は人々が知識や教養よりも、むしろ目に見える品物や趣味にお金をかける傾向を皮肉っているのです。
確かに誰もが教養の大切なことをよく知っています。
ところがそれよりも毎日食べるものや、着るもの、住まいなどについお金をかけてしまいがちです。
さらにいえば、趣味などに金銭をつぎ込むということも当然あるでしょう。

高級な外車や調度品などに大金を使うという心情はまさに似たパターンかもしれません。
また、学者の貧しい身なりや、書物を借りたまま返さない学問好きの人々についても述べています。
きっと彼の周辺にもこれと似た人がいたのでしょうね。
学問をする人への批判もきついです。
知識を求めることが必ずしも立派な人格や行動につながるわけではない、というのは悲しい現実です。
「勉強すると貧乏になる」と短兵急に主張しているワケでははありません。
学問をいくらしても人間としての立派さが保証されるわけでもないという、現実を描いているのです。
勉強と豊かさ
確かに、学問をするということは時間と労力を消費することを意味しています。
近頃のようにすぐコスパということを第一に考える時代をイメージしてください。
まさにこのテーマが複雑にリンクしているのがわかります。
時間やお金をかけすぎて、生活に支障が出てしまうのであれば、使い方を考える必要があるでしょう。
大学を卒業するのに奨学金を借りたため、その後の暮らしがうまくいかなくなったという人の話を聞いたこともあります。
学問はなんのためにするのか。

支払った学費の対価として、その後の賃金をテーマにした経済学の存在もあります。
本来、学問というのは自分の知的欲求を満たすだけでなく、それを他者のために生かしたり、正しい判断をするためのものでなくてはなりません。
学問には犠牲や苦労が伴うことを理解しなくてはならないのは当然のことです。
複雑にからみあっていて、なかなか正解が見えませんね。
最も大切なポイントは学ぶことの目的を見失わないことです。
目先の利益だけを求め、常にエビデンスだけを求めて生きていくのでは、あまりにも悲しいのではないでしょうか。
社会への貢献と自分自身の成長が比例してなされれば、それが最善であると考えます。
上田秋成が皮肉を含めて書いた要素が全くないわけではありません。
それだけに用心深くいきなければならないのです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
