メディアとの共生
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は広告と情報の境界線について考えます。
ネット時代に入り、あらゆる情報が瞬時に世界を飛び回っています。
メディアは情報を提供する重い役割を持つようになりました。
新聞やテレビの全盛時代が終わりを告げ、新しい媒体が次々と生まれています。
以前ならば全く考えられないほどの力を持ったSNSの登場などが、世界を変えつつあるのです。
アメリカや日本の選挙報道をみていれば、そのことがよくわかります。
広告は、メディアを通じて消費者に直接情報を伝える役割を担っています。
テレビ、ラジオ、新聞、インターネットなど、さまざまなメディアを利用することで、広告は広範囲に届く力を持っているのです。
メディアは広告収入によって運営されているケースが多いです。
基本的に無料で見られるテレビなどの場合、広告の占める割合が圧倒的に高いのは誰でも知っています。
そのため、広告がニュースや記事のように見える「ステルス・マーケティング」の問題も発生しています。
状況によっては、視聴者や読者が情報を正確に判断できなくなる恐れもあるのです。
広告は視聴者の価値観や行動を左右する大きな力を持っています。
しかし、その影響がつねにポジティブなものばかりとは限りません。
例えば、過剰な消費を促進する広告などは、明らかに多くの人を混乱させる要素を持っています。
あるいはジェンダー表現を含むメディアが広告を掲載する場合には、十分な注意が必要です。
社会的影響を考慮し、倫理的な基準が求められています。
広告とメディアが緊密に接している現代では、情報を批判的に読み解く力も必要です。
そうでないと情報に振り回される危険性があるからです。
教育啓発活動を成長させ、メディアリテラシーを向上させなければなりません。
しかし口でいうほど簡単ではないのです。
広告とメディアの共生には、情報の透明性、社会的責任、そして直感的リテラシーという3つの視点がつねに必要です。
どうすれば、うまくメディアと広告との共生が可能なのか。
それを考えることは、まさに現代そのものを探る方法でもあります。
「国語」の教科書にこの問題に直結する文章がありました。
本文
タイトルはズバリ「メディアと共生する広告」です。
筆者は社会学者・橋爪大三郎氏。
現代社会論の専門家です。
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広告の最大の特徴は、それがタダだということである。
これは不思議なことにも思える。
広告は、市場経済につきものだ。
何にでも値段がつくのが市場なのに、どうして広告だけはタダなのか。(中略)
広告はまず、うなぎ屋の店先のにおいである。
うなぎ屋のおやじは、蒲焼をばたばたあおいで表通りの客をよびこむ。
どうせにおいはタダである。
においがしない商品の場合、仕方がないから「寝具店」などと看板を出す。
看板を出すにはコストがかかるが、布団の売値に上乗せしておけばよい。
すべての広告は、この延長上にある。
広告は商品を買うとは限らない人々にひと足先に届く、商品の「におい」なのだ。
広告にコストがかかっても、広告の受け手にそれを請求はできない。
実際に商品を買った人々が、それを後払いするのである。
新聞やラジオ、テレビなど、マスメディアが発達すると、広告はそうしたメディアと共生関係を結ぶことになった。
考えてみれば、テレビの視聴者のなかには、番組が本体で、その前後にコマーシャルがついているのだと思っているひとがいる。
だが本当は、コマーシャルこそが本体で、それをほどよい間隔で見せるために、番組があいだに挟まっているのだ。
タダは怖い
だから民放はタダなのである。
人びとはテレビのスイッチひねれば、無料で好きな番組をみることができる。
番組を、スポンサーが「提供」してくれているからである。
ついでにコマーシャルから、商品情報を得ることもできる。(中略)
しかし世の中、タダほど高いものはないという。
テレビのバラエティー番組には社会的使命みたいなものがないから、スポンサーが番組に口を出してもだれも文句を言わない。
一方、新聞には社会的使命がある。
人びとに真実を伝えるという使命である。
ニュースと広告は、まったく関連を持たないこと。
これがマスメディアの一番基本的なルールのはずだ。(中略)
これが行きすぎ、広告を記事に見せかけたりすれば、れっきとしたルール違反になる。
たとえば資源エネルギー庁が広告主の名を伏せて、新聞に「プルトニウムの安全性」をめぐる記事載せたケースがそれだ。
内容が偏っているか否か以前の問題として、読者は自分の読んでいるのが記事なのか広告なのかを知る権利がある。
この基本が脅かされるようだと、メディアと広告の幸福な二人三脚は根底からくつがえってしまうだろう。
広告の持つ意味
最初にこの文章を読んで浮かんだ幾つかの問いについて考えてみましょう。
広告が商品のにおいであるとはどういうことなのでしょうか。
それは広告がタダで不特定多数の人々に提供されるからです。
それによって、商品の存在をいちはやく提示し、その商品を買う気持ちにさせるものであることを意味します。
またタダほどたかいものはないという表現についてはどうでしょう。
よく使われる言葉ですね。
広告主が番組や記事を制作する費用を提供してくれることから、視聴者や読者は受信料や購読料を支払わずにすんでいます。
そのため広告主が報道内容に干渉したり、広告を記事に見せかけたりすることもあります。
そのことによって、受け手が真実を得られないという不利益をこうむることがあるのです。
ここからステルス広告の危険性があぶりだされてきます。
メディアとの関係は、確かにブランドの認知度を高めるためにも重要です。
特に、頻繁に目にする広告は、消費者の記憶に残りやすく、ブランドの印象を強化します。
現代の傾向として、一般的に打つ広告の限界がよく語られるようになりました。
テレビでいえば、どういう視聴者をターゲットにするかで、時間帯と番組の内容などを個別化することができます。
基本的に無駄な広告を垂れ流すような無駄を省きたいということでしょう。
それがさらに先鋭化されているのが、デジタルメディアです。
広告は以前よりはるかに具体的なターゲットに向けて、配信されるようになりました。
これにより、広告主は効率的に資源を活用し、消費者のニーズに応じたメッセージを届けることが可能になっています。
特にビッグデータの結果が、消費者の動きを完全に捉えて離しません。
ネットなどで嗜好がはっきりと出る場合は、同一人物に向けて集中的に広告を打つということになります。
そこで行われがちなのがステルス広告です。
ステルス広告は、消費者に広告であることを意識させずに商品やサービスをプロモーションする手法です。
例えば、テレビドラマや映画の中で自然に商品が使用されるシーンが挙げられます。
この手法は、消費者の注意を引きにくい環境であっても、潜在的な影響を与えることができるため、広告の新たな形として注目されています。
消費者の受容性
ステルス広告は、消費者が広告を拒否する傾向が強まる中で、より受け入れられやすい方法として機能します。
視聴者はストーリーやキャラクターに没入するため、広告に対する警戒心が低くなります。
ステルス広告は、ブランドが消費者の日常生活に自然に溶け込むことを可能にします。
これにより、消費者は商品をより親しみやすく感じ、購買意欲を高めることになるのです。
広告はメディアを通じて消費者に情報を届け、ブランド認知を高める重要な役割を果たしています。
また、ステルス広告のような新しい手法は、広告の効果をさらに高める可能性を秘めています。
メディアと広告の関係は深いところで密かに進化し続けているのです。
このテーマは、小論文の設問にピッタリです。
ステルス広告の怖さをネット社会と関連付けて綴ってみてください。
期待しています。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。