原始社会像の真実
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
ユニークな評論が論理国語の教科書に載っていました。
今回はそれを読んでみましょう。
高校2、3年用の教材です。
タイトルは「原始社会像の真実」。
筆者は考古学者の新納泉(にいろいずみ)氏です。
日本の古墳時代を中心に遺物、遺構に即した研究をベースにし、コンピュータ考古学を駆使して、社会の動態や特性の解明を目指している研究者です。
最近の研究は、前方後円墳の設計原理に関するものがメインだとか。
三次元計測という新しい方法で、コンピュータを駆使して、古墳時代の人びとの知恵に挑んでいます。
どんな学問でも、その時代の中に踏み込み、その時代を生きている人々の視線にたって、ものごとを理解分析していくのは、大変に難しいものです。
どうしてもそこには現代人の価値観に頼った思考方法が存在してしまいがちです。
その極端な例が、原始社会には戦争がなく平和でいい時代だったというものです。
一種の理想形だといってしまえば、それまでのことです。
しかしこういう視点はある意味、非常に危険です。
特に現代のように複雑な情報が日々頭上を飛び交う時代には、どれを信じていいのかわからなくなります。
その時につい、昔はよかったという視点に陥りがちなものです。
元々、情報が少ないのですから、多くの人が似たような思考形式をとってしまうというのは、仕方のないところでもあります。
しかし筆者は、過去を理想化して未来の目標にすることは良くないと明言しています。
原始社会にも現代と同様に、戦争や女性差別、環境破壊がありました。
これは厳然たる事実なのです。
未発達な社会
多様性を持った社会が、次の社会を形作っていったと考えるべきだというのが彼の論点の主旨です。
従来のように「単純で未発達な社会」というイメージにこだわってしまうと、最も大切な視点をはずしてしまいます。
筆者の考え方を導入し、論点を整理すると次のような内容になります。
➀原始社会を単純で非文明的なものと見なすのではなく、独自の文化や社会システムを持っていたと捉える。
②狩猟採集民を単に食料を求める生活者とするのではなく、自然との調和を重視した生活様式であったと評価する。
③原始社会を平和的なものと単純化するのではなく、一定の対立や紛争があったことを認める。
以上の3点です。
現代を生きる私たちは、より複雑で多様な側面があったことを重視する研究を進めなければなりません。
実際の原始社会は、単なる「未熟な段階の社会」ではなかったのです。
たとえば、食料を効率よく得るために狩猟や採集の技術が発達し、自然のサイクルを理解する力が必要でした。
それぞれの個人が生きるためのルールや役割分担をしっかりと決めていたのです
さらに、言葉や芸術も元々社会の重要な要素でした。
洞窟壁画や装飾品などからは、自然や動物への感謝や、仲間とのつながりを大切にする気持ちが強く読み取れます。
つまり、原始社会は「劣った単純な社会」ではないという事実です。
その時代の環境や必要に応じた工夫と知恵の結晶で出来上がっていたという事実から出発する必要があるのです。
原始社会はしばしば部族や氏族といった小さな集団で構成されていました。
これらの集団は、分業や役割分担を通じて効率的に機能していたのです。
その一例として原始社会における紛争解決の方法はどのようなものだったのかを考えてみましょう。
戦争はなかったのか
原始社会における紛争解決の方法は多様でした。
小規模な紛争や問題は、部族や氏族の長老や指導者たちが集まって協議し、解決を図る方法がよく使われていました。
集団内での話し合いや意見交換を通じて、紛争を解決しようとする試みが行われたのです。
その際に必要なのは仲裁者の存在です。
重要な紛争や対立が生じた場合、中立的な第三者や部族の指導者が仲裁者として介入しました。
仲裁者は公平な判断を下し、双方が納得できる解決策を見つける役割を果たしたのです。
一部の原始社会では、特定の儀式や儀礼を通じて紛争を解決する試みもしました。
和解を象徴する儀式や誓いの儀礼がそのための方法です。
それでもうまくいかないと時はどうしたのか。
力による解決も行われたと考えられます。
軍事力を使って闘争を行い、紛争を解決しようとする場面もあっただろうと推測されています。
ただし、力を行使することはあくまでも最終手段です。
他の解決方法が全て否定されたときの、最も避けるべき方法でした。
祈祷や祭祀を行い、神や霊的存在の力を借りて和解を促す努力がなされていたことは容易に想像できます。
つまり現在よりも劣った社会ではなかったということです。
単純な見方で原始社会を甘くみてはいけません。
そこに生きた人たちも、今日と同じように必死だったのです。
無益な死者を生み出すことなどは、しませんでした。
AIがなくても、人は考え、相談し、長老の意見に耳を傾けました。
現代と同じ構図です。
教科書の本文を読んでみましょう。
本文
原始社会には、戦争がなかった。
そして、戦争は歴史的な産物なのだから、必ずなくすことができる、戦争のない社会を実現することができるはずだ、と言われることがある。
確かに、日本列島においても、旧石器時代や縄文時代に戦争はなかった。
ムラの多くの構成員が争いによって死傷したという例を遺跡の中に見出すことはできず、恐らく今後も発見されることはないだろう。
その意味で今紹介した主張は誤っていない。
それは確かである。
しかしいくばくかの違和感は、どうしても拭い去ることができない。
何が問題なのか。
それは単に戦争がなかったという客観的な事実だけが語られているのではなく、原始社会は戦争のない平和な社会だったという評価が言外に付加されているからだ。
狩猟採集社会の集団は小さく、バンドという百人前後の規模であることが多い。
若くして死ぬ人が多いので、私たちの今日のイメージよりは子どもの数が多く、成人は少ない。
そこで、仮に戦いが行われたとしてもそれに参加する人数は著しく限られ、とても戦争というかたちには数的に達しない。
また殺傷のみを目的とした道具である武器もまだ出現していない。
戦争が行われなかったのは平和的であったからということとはいささか異なる問題で、集団の規模や道具の発達段階から戦争と呼ばれるものに達していなかったというのが真相であろう。(中略)
環境を激しく破壊した原始社会は恐らく存在していただろう。
何も原始社会を純粋無垢な赤子のように描く必要はない。
人類の祖先である類人猿の社会も、決して争いや格差のないユートピアではなかったわけだから。
多くの生物が進化の過程で袋小路に入って滅びてしまったように、人類の社会もまた著しく多様であって、あまりに極端なシステムを採用してしまった社会は生存のための適合性を低下させ、そうしたシステムを将来に残すことができなかったのではないかと考えている。
原始社会は、ユートピアではなかった。
また、逆に野蛮であったわけでもない。
そのようなモノトーンで描かれるのは、私たちが現代のメガネで原始社会を見ているからであって、実際の社会は著しく多様であり、その多様性の相互関係の中から、次の社会がかたちづくられていったと考えたい。
多様性の容認
ここまで読んできてわかるように、けっして原始社会は野蛮な時代ではありませんでした。
日々の糧を求めるために、人々は協力を惜しまず、額に汗して働きました。
その積み重ねが、今日にまで続いていると考えるべきなのです。
考古学者はあまりにも昔のことを、ロマンの対象にしすぎたのかもしれません。
ギリシャの遺跡発掘などに関するシュリーマンの『古代への情熱』を読むと、その感を強くします。
しかし現代はコンピュータで事実を積み重ねて、研究する時代です。
いわばファクトチェックの学問とでも呼べばいいのかもしれません。
おのずとそこに根の生えた正確な事実がみえてきます。
それだけに、勝手な思い込みが許されなくなっているのです。
原始時代から、すでに多様性の中に人間はいたという事実は、新鮮な気持ちで学問に取り組む意気込みを感じさせます。
ぜひ、さまざまな本を読んで、そのことを確認してみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。