【メリトクラシーの功罪】資本主義の原動力に潜む危うさは想定以上だった

学び

メリトクラシー

みなさん、こんにちは

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はメリトクラシーということの中身を覗いてみます。

あなたは耳にしたことがありますか。

時々、聞く言葉ですね。

しかしあまり深く、その意味を考えたことはないのではないでしょうか。

今回は近代の成立概念の基本にある、この概念を検証してみます。

難しく論じるつもりは全くありません。

日常的な感覚で、その意味を論じてみたいのです。

メリトクラシー (meritocracy) という表現は、メリット(merit「業績」)とクラシー(cracy「ギリシャ語で支配の意味」)を組み合わせた造語です。

わかりやすくいえば、個人の持っている能力によってその地位が決まり、能力の高い者が統治する社会を指します。

一種の能力主義のことです。

個人の努力や実績次第で、社会的地位を変えられるというのが基本的な考え方です。

この概念に1番ぴったりくる制度とは、どのようなものでしょうか。

ズバリ資本主義社会そのものです。

弱肉強食の世界といってもいいのかもしれません。

能力の高いものが、努力の果てに富を獲得するという図式です。

逆にいえば、貧困は怠惰の印なのです。

世界の趨勢をみてみると、この考え方で社会が進んでいるのがよくわかります。

優秀な頭脳を持ち、高い学歴を獲得した者は、社会的に高い地位を獲得しやすいのです。

さらに富も名誉も獲得できます。

その結果、他の大多数の人は彼らを仰ぎ見ることになります。

しかし表だって不平不満を述べることはありません。

機会の平等

なぜかといえば、能力と努力の末に富と名誉を掴んだからです。

自分は彼らほど十分な努力をしなかったということが、諦めの根本にあります。

この概念の根本は西洋的な道徳観念にあるともいえます。

聖書にその起源をたどることも可能でしょう。

しかし今日、本当にこの思想は正しく機能しているのか。

ちなみに反対語は貴族主義(アリストクラシー)です。

生まれながらにして、人には身分の違いがあり、階級も自ずと異なるという考えです。

ここでもう少し考えてみましょう。

人間に機会が平等に与えられたと、仮定した場合の話です。

その時、貧富の差は縮まり、本当に公平な社会が実現するのでしょうか。

これは大変に難しいテーマですね。

日本は戦後、教育に力を注いできました。

個人の能力を高めるために、学制を整え、指導要領や組織そのものも同一化したのです。

その結果が、現在の階層化社会といってもいいのかもしれません。

皮肉な話です。

見かけ上、今も学校はどこも同じ形態をしています。

しかし現実には無数の格差を孕んでいるのです。

なぜそうなるのか。

学校制度は既に公平なものではなくなっているからです。

ハーバード大学のマイケル・サンデル教授をご存知ですか。

NHKでもその授業の様子が何度も放送されました。

非常に内容がユニークで面白かったですね。

白熱教室の内容は本にもなっています。

時間があったら、ポイントだけでもおさえておいてください。

実力も運

彼の著書の中に『実力も運のうち、能力主義は正義か』というベストセラーがあります。

主題はいくつかに分かれています。

才能があれば出世できるという「出世のレトリック」は、いまや虚しく響く段階になったというのが基本です。

彼の調査によれば、貧しい家庭に生まれたアメリカ人は、大人になっても貧しいままであることが多いというのです。

能力主義の倫理が極限までエスカレートすると、勝者と敗者の差が、より激しいものになっていきます。

一方には驕った人間の集団が生まれ、他方には屈辱にねじまがった人々の群れが大量に発生するのです。

勝ち組と負け組と呼ばれる、エリート対非エリートの対決がより鮮明になります。

その結果、ポピュリスト達の反乱が起こる遠因にもなっています。

トランプ氏がなぜ大統領になれたのか。

その裏側には、メリトクラシーの陰が潜んでいるのです。

この現象はアメリカだけの現象ではありません。

日本でも、全く同様です。

最近「自己責任」という言葉をよく聞きますね。

この表現の背景には均等に自由競争をしたのだから、それに負けたのは実力が十分に身につかなかったのだという考え方があります。

つまり結果として格差が生まれたとしても、それは怠惰がそうさせたのだというワケです。

能力が十分に発揮できなかったのは自分が悪いのだ。

だれのせいでもない、つまり自己責任だというのです。

そう言われてしまうと、あとは黙ってしまう以外にありません。

貧困は怠惰と同義だからです。

才能と努力

メリトクラシーの考え方を前面に押し出すと、学歴偏重がさらに進みます。

一見、社会の不平等がみえない中で、階層化を生み出す幾つものパラメーターが現実のものになっています。

第一は親の収入です。

日本のように奨学金システムが貸与型でない場合、これは大きな意味を持ちます。

さらに環境の持つ文化的資本も大きな要因の1つです。

具体的にいえば、家に本があるどうか、博物館や美術館、音楽会などに行く機会があるかどうかなどの環境が、子供にもたらす影響は絶大です。

有名大学に入学した人達は、当然のようにその状況を自分の努力の賜物だと思い込んでいます。

敗者は全くその逆なのです。

当然、自尊心の喪失と自責の念にさいなまれます。

現在の職業が本人の望むものでない場合、「努力」の質が問われることもあります。

ここ数年のコロナ蔓延もその状況に拍車をかけました。

正規と非正規との対比が一気に明瞭になりました。

6月末、ハーバード大学の入学定員に関して大きなニュースがあったのを御存知でしょうか。

かつてのように人種を分けて入学させるのは不平等だという声が、大きくなりつつあったのです。

アファーマディブ・アクションと呼ばれる考え方がそれです。

米連邦最高裁は大学の入学選考で、黒人や中南米系を優遇する、積極的差別是正措置を違憲と判断しました。

白人たちにもゆとりがなくなっているのです。

学生の多様性を確保してきた取り組みが、制限される怖れがあります。

その結果、以前よりも白人が大学に入学できなくなるという事態も考えられるのです。

自己責任といえば、それまでですが、自分の首を自ら締める行為にもなりかねません。

敗者が不満をもてば、当然ポピュリズム(大衆迎合主義)が台頭してきます。

傲慢な勝者たちが多くの人々に襲われる構図も、考えられます。

能力よりも出自や血縁によって決まっていた時代に戻るのか。

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未来の構図は全くみえないまま、現在も想定以上の方向へ進んでいるのです。

今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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