【落語と演劇】圧倒的な想像力に訴える熱い言葉の芸【一人芝居との違い】

落語

落語と演劇

みなさん、こんにちは。

アマチュア落語家のすい喬です。

落語を本格的に稽古し始めてから約15年がたちました。

もちろん、これで暮らしをたてているワケではありません。

本業は別にあります。

落語はあくまでも道楽のレベルです。

素人のグループをよく「天狗連」などと呼びますね。

御存知ですか。

みんな「我こそは」という気持ちで始めるのです。

別名「寝床」ともいいます。

これは有名な落語「寝床」からとった命名です。

自分だけがうまいと思っているが大旦那が、得意の義太夫を無理に人に聞かせるという実に滑稽な噺です。

周囲の人達が言い訳をしながら逃げ回るという構図に、この種の素人芸に共通した愉快なドラマが繰り広げられます。

ぼくもやりますが、この噺は実に傑作です。

それくらい素人芸は他人にとって迷惑なものなのです。

しかし何年もやっていると、道の遠さをひしひしと感じます。

時々、寄席などにでかけると、最初に前座と呼ばれる入門してすぐの若い落語家がでてきます。

いわゆる「開口一番」というやつです。

高座名をかいためくりも用意されていません。

そういう彼らの落語を聞いていると、自分の落語がいかに下手かということに気づき、愕然としてしまうことがあります。

よく大学の落研でやった落語は、プロに入門したら、全部使い物にならないという話を聞きます。

その理由がわかるのです。

妙な癖

なぜそんなことを言うのでしょうか。

理屈は簡単です。

ちっとも面白くないからです。

どこがいけないのか。

基礎基本をきちんと学ばずに、恰好だけそれらしくやっても、先へいって伸びないのです

師匠は今までに覚えたことは、全部捨てろと命じます。

これはあらゆる芸事に共通する考え方なのかもしれません。

素人芸は所詮、そのレベルのものなのです。

「ご隠居さん、こんにちは」

「おや、だれかと思ったら八っつあんじゃないか」

たったこれだけの台詞の中に、この2人の関係が滲み出ていなければなりません。

八っつあんはかなり失礼なことを次々と口にしますが、それがちっとも嫌味にならないのです。

なぜか。

Photo by Norisa1

2人の間に十分良好な関係が築けているからなのです。

それをこの短い言い回しの中で、表現しなければなりません。

隠居さんの佇まいから、部屋の調度、広さに至るまでが、見えてこなければいけないのです。

そんなことを考えていたら、気楽に入門しようなどという気持ちにはなかなかなれませんね。

前座の佇まいからふとそんなことが想い浮かびます。

それが道のりの遠さとなって実感される頃から、本当の修行が始まるのです。

しかしいずれにしても素人の悲しさです。

生活を支えるという覚悟がありません。

稽古にも真剣に没頭できないのです。

一人芝居

最近、一人芝居との差についても考えることもあります。

有名な俳優の中には、落語に挑戦している人もかなりいますね。

女性もいます。

率直にいって違和感を感じた時もありました。

芝居と落語はどこが違うのか

これはすごく微妙なテーマです。

今までに見た一人芝居の中では、小沢昭一の「唐来参和」(とうらいさんな)と渡辺美佐子の「化粧」が最も強い印象として残っています。

草笛光子の「私はシャーリー・ヴァレンタイン」はゲネプロと本番を両方見ました。

その他に三浦洋一や市村正親のものなども見ています。

いずれもきちんと衣装をつけ、背景があり、効果音がありという体裁のものです。

落語とは全く作り方が違います。

俳優として特異な活動をしている人に風間杜夫がいます。

演出家、つかこうへいとの関係を知らない人はいないでしょう。

映画「蒲田行進曲」の銀ちゃんは当たり役でした。

彼は芝居の他、落語を精力的に公演しています。

プロの噺家と一緒にやる機会も多いようです。

「湯屋番」の動画と「化け物使い」の音源がネットにもありますので、チェックしてみてください。

落語は1人で完結する芸です。

本番中は誰にも頼ることはできません。

お客に受けなかったら、それは自分が悪いのです。

共演者との「間」(ま)をかえるなどということもできません。

完全な1人芸の持つ厳しさがそこにはあります。

台詞と言葉

これはよく演者が口にすることですが、相手の台詞を最初から知っているという前提で噺をしたら終わりです。

自分の前にいる人間が何を言うのか、それを聞いている当人は全く知りません。

もちろん、本当は知っています。

しかし知らないことを前提としてドラマツルギーが完成しているのです。

これが芝居の場合だと、数人、数十人単位で進行します。

たとえ、台詞が同じでも、そのスピードや「間」は毎日違います。

これが1人芝居の場合はどうか。

当然、主人公は人間です。

つまりそこでは言葉を中心に動きがあります。

それに加えて効果音があり、照明があるのです。

これを落語のケースで考えてみましょう。

持っているのは手拭いと扇子のみです。

立って演じることもありません。

座布団の上に座ったまま、半身だけの芸です。

足をみせることは基本的にありません。

その場から動き回ることはないのです。

宇宙は座布団の上で自己完結していなければいけないという制約が、基本的にあります。

さらに効果音もなく、照明も怪談噺などを除いて、通常はついたままです。

たった1人の人間が持っている「間」だけが、勝負の切り札です。

稽古も最後まで自分自身で完結しなくてはなりません。

どこまでやれば1つの噺が完成するということもなく、千穐楽もありません。

噺家が死ぬまで、1つの話はその人の芸として成長していく可能性があるのです。

お客の側からいえば、噺家が提供しくれるものは「想像の世界」以外にはありません。

そこにある唯一のものは「言葉」です。

どのような言葉を使うのかによって、落語が豊かになるか、貧しくなるかが決まります。

活舌がいいということが、必ずしも評価される世界ではありません。

クリアな言い回しになったからといって、江戸の風が吹くというワケではないのです。

プロの落語家でない人の話を聞く時、違和感を感じることが今までにも、何度かありました。

ふと思ったのは、この「言葉」に対する感覚の違いだったのかもしれません。

厳密にいうと、落語の言葉は台詞ではないのです。

日常の変哲もない、ただのおしゃべりです。

俳優にとって、この垣根は意外と高いものなのかもしれません。

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いずれ、このテーマはもう少し掘り下げて考えいきたいです。

今回も最後まてお付き合いくださり、ありがとうございました。

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