【講演会が好き】気配と息遣いから作家の度量を肌で知ることが可能

学び

講演会

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は講演会についてのあれこれです。

考えてみると、今まで実にいろいろな講演を聞きに出かけました。

文学関係のものがやはり多いです。

話し方やその作家の気配はやはり実際に聞かなくてはわからないものです。

大学まで来てくれた方々にもお礼を言わなければなりません。

詩人の講演会もよかったですね。

入沢康夫さんとか、長田弘さんとか。

自作の朗読もしてくれました。

作家では後藤明生さん、黒井千次さん。

その時の話はぼくの血や肉になっています。

ゼミでは饗庭孝男先生にお世話になりました。

しかしあらゆる講演を聞くなどということは、無論不可能なことです。

そういう時はどうしても本に頼らざるを得ません。

講演集も今までに随分読みました。

やはり作家のものが多いのですが、そうでない科学者のものなども好きです。

以前はよく小説家、森敦のものを読みました。

彼が湯殿山注連寺(ちゆうれんじ)で毎晩行った講演などはなかなかの傑作です。

数学に対する造詣の深さにも驚かされました。

その他では江藤淳のものも好きです。

彼は実に理知的で、しかも明晰な人です。

『漱石とその時代』はいい本ですね。

司馬遼太郎

このところ熱中しているのは、司馬遼太郎の講演集です。

朝日文庫から5冊出ています。

1巻づつ読み始めましたが、面白くてやめられません。

歴史上の人物について語ったものが多いのは、当然ですが、それだけではありません。

とにかく実に視野が広いのです。

本当に驚かされます。

仏教を論じていたかと思うと、すぐに儒教、キリスト教、イスラム教というように広がっていきます。

彼の興味の源泉は、なんといっても日本人はどういう民族なのかということにつきます。

この国にイデオロギーというものはあったのか。

信長、秀吉の特性から、医者の世界の特殊性、さらには経済、政治というものに対する考え方、世間とはなにかというところにまで伸びていくのです。

geralt / Pixabay

実に数十年にわたる彼の軌跡が、今そこにいるように語られているので、本当に面白いのです。

明治の話かと思えば、一気に奈良時代まで飛びます。

その知識というより、骨格の確かさに目をみはるといった方がいいのでしょうか。

毎日、あちこちで行った講演を味わいながら、知るということが本当の力になるには、実に長い歳月が必要だなとしみじみ感じます。

なんといっても発酵していく時間の醍醐味というものがあります。

大きな知性を失ったものです。

これからも彼の著作を読み続けていきたいです。

司馬史観から学ぶものはたくさんあります。

特に戦時中に軍部が唱えた天皇の統帥権という考え方です。

日本が太平洋戦争に突入した後、戦線を拡大していった根拠がまさに統帥権という考え方でした。

渡り廊下の思想

つい先日も司馬遼太郎の講演を聴く機会がありました。

CDで発売されているのです。

最近は様々な媒体で、亡くなった作家の話を追体験することもできます。

そこでの主題は日本と西洋の小説の構造の違いについてでした。

元々は建築の話が主です。

しかしその中にふっと小説の構造についての話が挟まったのです。

彼の言うところによれば、日本の小説は平屋だというのです。

どんな話もそれほどに複雑な構造を持っているわけではなく、むしろそれらを次々と廊下でつなぐ形式のものが多いというのです。

それに反して、西洋の小説はとにかく基礎工事をしっかりしたものが多いとか。

最初は本当に退屈で、なかなか読み進むのがつらいというのです。

面白い指摘だと思いました。

教会の尖塔などをみても西洋のものは石造りで土台がしっかりしています。

ドストエフスキーなどを連想してみれば、すぐにわかるかもしれません。

『カラマーゾフの兄弟』にしても『死霊』にしてもその話は延々と続きます。

そして登場人物の関係を把握させるために、説明部分の描写が長いのです。

そのかわり、ストーリーが進み始めると、面白いとしかいいようがありません。

さて一方、日本の小説はどうか。

なんといってもその典型は『源氏物語』でしょう。

よく『(原)源氏物語』はどのような構造であったのかという話を聞きます。

紫式部が書き始めた時は、現存しているものとは全くイメージが違っていたというのが現在の通説にもなっています。

彼女は最初からすべての巻を構想していたのではなく、次々と脇筋が広がるにつれ、その構造を継ぎ足していったようです。

まさに渡り廊下でつながれた小説といえるのではないでしょうか。

仔細に読んでいくとわかりますが、ほとんどの文章には主語がありません。

誰の行動かを探るのは、それぞれの場面で想像していく以外にないのです。

構造の違い

この点は驚くほど、西洋のものと構造の違いをみせています。

元々日本人には全体の構成を最初から構成するという性行がないのかもしれません。

そういうことがもっとも苦手な民族だと考えた方が自然なのではないでしょうか。

だからといっては語弊があるかもしれませんが、日本ではエッセイがとてもよく売れます。

五木寛之は自らを「デラシネ」と呼び、引揚者の根無し草性を標榜しています。

加賀の一向宗に根を置き、蓮如に深い想いを抱いています。

親鸞にも親愛の情を抱く作家に、多くの人の共感がなぜ集まるのでしょうか。

構造を持たない、あるいは持ちたがらない日本人の心性が気になります。

やはり木と石の思想の違いなのかもしれません。

geralt / Pixabay

西洋の家などはほぼ石で作られました。

古代ローマ帝国の頃作られた建築物が今もそのまま残っています。

水道などの施設もいまだに利用されています。

それに比べると、木の家はあまりにも脆いですね。

土台をいくら頑丈にこしらえても朽ち果てる。

ドストエフスキーなどの小説にある骨の太さが、日本の小説にあるとはとても思えません。

私小説などの伝統が今も残っている日本の風土は、やはり特別なものなのでしょう。

それは庭園の造形においても同じです。

自然とどう対峙するのかという根本的な考え方の違いがあるように思われます。

今は多くの講演をCDやDVDなどでも聞いたり見たりすることが可能です。

亡くなってしまった多くの作家の生の声に耳を傾けることで、自ずと活字とは違う作家の度量や勢いが伝わってきます。

是非、チャレンジしてみてください。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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