かくれんぼ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回のテーマは子供の遊びです。
「かくれんぼ」あるいは「かくれんぼう」についてです。
過去に大学の小論文の問題に出たことがあります。
実にシンプルな提出の仕方でした。
受験生は焦ったでしょうね。
おそらく考えたこともないテーマだったと思います。
意外な内容をどう論文にまとめるのか。
実力が試されるワケです。
問題文を次にあげます。
非常に短いです。
「子どもの頃に遊んだ「かくれんぼう」は、大人になると遊ばなくなる。なぜなのか。
考えるところを601字以上1000字以内で論じなさい」
これだけです。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2020/12/undraw_Faq_re_31cw1.png)
制限時間は90分。
字数は最高1000字です。
どう考えても600字では少ないですね。
90%は使いたいです。
つまり900字以上は全力で書く。
ではどの視点からまとめればいいのか。
1000字近くを使って文章を書くのです。
いい加減な視点では不十分なものにしかなりません。
体育系の学部の試験に提出されたということは、明らかにスポーツとの違いを意識しています。
つまり二項対立の図式の中に収めることが大前提です。
最初にかくれんぼの原点まで戻る必要がありますね。
子供の遊び
かくれんぼというのは基本的に子供の遊びです。
何歳くらいからすると思いますか。
見つけてもらったときの、あのとっても嬉しそうなこどもの顔をイメージしてください。
自分が幼かった時の記憶を遡ってもいいです。
いくつの頃からやったのか。
つまりこの遊びのルールが理解できる年齢は何歳くらいかということです。
かくれるというのはある意味、不安な要素に満ちています。
親がしばらくいないことに気づいた子供は泣きますね。
それくらい、親の不在は不安材料の塊なのです。
保護される保証がなくなったことを意味します。
一定の時間、自分がいなくなったことを認知し、それでも探してくれる存在がそこにあることを知っていて、不安に耐えられる年齢。
それが遊びの1つだと認識できる段階に達していることが前提です。
いないいないばあとは全く内容が違います。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/12/undraw_doll_play_evbw-1024x653.png)
その点をまずおさえてください。
子供は楽しいと、何度でも同じ内容の遊びを要求します。
しかしそのたびに技術が向上し、より高度な達成感を要求するでしょうか。
家の中で子供とかくれんぼをした記憶のある人もいると思います。
しかしそのために練習を続けることはないのが普通です。
隠れる場所のレベルが特にあがるということもありません。
人によっては1歳半頃から出来るという人もいます。
しかしルールがきちんと理解でき、発見された時の喜びが大きくなる感情は、4歳くらいからのものと考えた方がよさそうです。
ポイントをどこにしぼるか
テーマ型の小論文にはほとんどヒントがありません。
あまりにも提出された文章が短くて、どこにしがみついたらいいのかよくわかないからです。
それでもキーワードはあります。
そこが唯一の突破口です。
気分で書いてはダメです。
スポーツ関係の学部であれば、単純な子供の心理がポイントではないのです。
もう1度、問題文を読んでください。
「大人になると遊ばなくなるのはなぜか」
ズバリこれです。
ポイントは大人と遊びとの関係です。
二項対立のもう1つのキーワードは「大人とスポーツ」の関係だということもわかります。
かくれんぼには基本的に大人を夢中にさせる要素がありません。
それはなんでしょうか。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/11/スピード_1574145798-1024x682.jpg)
勝利の喜びです。
他者と競争し、自分が一歩でも先にでることの達成感を知ることです。
さらにいえば、そのための練習に励んでまでやる価値があるのか。
それらがこの遊びにはないのです。
だから大人たちはかくれんぼをしないと考えればいいでしょう。
その反対に、スポーツの練習をする理由はなぜなのか。
勝敗をきめることの意味はどこにあるのか。
ここにポイントをしぼってください。
勝敗の意味
極端なことをいえば、小学生低学年でも、もうかくれんぼなどしないかもしれません。
ゲームといえば、もっぱらテレビゲームです。
最近はスポーツなどと言い換える人もいますね。
聞いたことがありますか。
「eスポーツ」という表現を多くの人が口にします。
身体を使ってするのがスポーツの定義だと考えている人にとって、随分ふざけた話にきこえるかもしれません。
しかし両者の領界は明らかに崩れています。
そのこともおさえておいてください。
今や、あらゆることがスポーツの領域の中に組み込まれているのです。
人間は勝ち負けに関わることが好きなのです。
競争といってもいいかもしれません。
我慢をして禁欲をし、さらに勝利の喜びを強くするのです。
マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本をご存知でしょうか。
反営利的な倫理のあり方こそが、近代資本主義を生んだという起源の説明をした本です。
逆説的な言い回しですね。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/10/アリス_1569911055-1024x685.jpg)
組織的な資本主義はある意味で、競争の原理で動いています。
その根本にあるのが、設定されたルールの中で、勝利するために自己研鑽を積み重ねるという近代の図式です。
そのかたちの延長が、まさに近代のスポーツを支えてきました。
しかしそれもコマーシャリズムの持つ怒涛のような流れの中で、今日崩れようとしています。
金銭になるスポーツの概念は、ある意味、おにごっこの対極にまで来てしまったのかもしれません。
それはまずいという指摘も、同時にここでは可能でしょう。
いずれにしてもスポーツが持つ競争との和合は、かくれんぼのような遊びとは、全く交わらないという事実をきちんと見つめつつ、文章をまとめることが大切です。
簡単なようでいて、きちんとポイントをおさえないと、先には進めません。
1度自分で試みてください。
ちっともやさしくはありません。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。