かくれんぼ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回のテーマは子供の遊びです。
「かくれんぼ」あるいは「かくれんぼう」についてです。
過去に大学の小論文の問題に出たことがあります。
実にシンプルな提出の仕方でした。
受験生は焦ったでしょうね。
おそらく考えたこともないテーマだったと思います。
意外な内容をどう論文にまとめるのか。
実力が試されるワケです。
問題文を次にあげます。
非常に短いです。
「子どもの頃に遊んだ「かくれんぼう」は、大人になると遊ばなくなる。なぜなのか。
考えるところを601字以上1000字以内で論じなさい」
これだけです。
制限時間は90分。
字数は最高1000字です。
どう考えても600字では少ないですね。
90%は使いたいです。
つまり900字以上は全力で書く。
ではどの視点からまとめればいいのか。
1000字近くを使って文章を書くのです。
いい加減な視点では不十分なものにしかなりません。
体育系の学部の試験に提出されたということは、明らかにスポーツとの違いを意識しています。
つまり二項対立の図式の中に収めることが大前提です。
最初にかくれんぼの原点まで戻る必要がありますね。
子供の遊び
かくれんぼというのは基本的に子供の遊びです。
何歳くらいからすると思いますか。
見つけてもらったときの、あのとっても嬉しそうなこどもの顔をイメージしてください。
自分が幼かった時の記憶を遡ってもいいです。
いくつの頃からやったのか。
つまりこの遊びのルールが理解できる年齢は何歳くらいかということです。
かくれるというのはある意味、不安な要素に満ちています。
親がしばらくいないことに気づいた子供は泣きますね。
それくらい、親の不在は不安材料の塊なのです。
保護される保証がなくなったことを意味します。
一定の時間、自分がいなくなったことを認知し、それでも探してくれる存在がそこにあることを知っていて、不安に耐えられる年齢。
それが遊びの1つだと認識できる段階に達していることが前提です。
いないいないばあとは全く内容が違います。
その点をまずおさえてください。
子供は楽しいと、何度でも同じ内容の遊びを要求します。
しかしそのたびに技術が向上し、より高度な達成感を要求するでしょうか。
家の中で子供とかくれんぼをした記憶のある人もいると思います。
しかしそのために練習を続けることはないのが普通です。
隠れる場所のレベルが特にあがるということもありません。
人によっては1歳半頃から出来るという人もいます。
しかしルールがきちんと理解でき、発見された時の喜びが大きくなる感情は、4歳くらいからのものと考えた方がよさそうです。
ポイントをどこにしぼるか
テーマ型の小論文にはほとんどヒントがありません。
あまりにも提出された文章が短くて、どこにしがみついたらいいのかよくわかないからです。
それでもキーワードはあります。
そこが唯一の突破口です。
気分で書いてはダメです。
スポーツ関係の学部であれば、単純な子供の心理がポイントではないのです。
もう1度、問題文を読んでください。
「大人になると遊ばなくなるのはなぜか」
ズバリこれです。
ポイントは大人と遊びとの関係です。
二項対立のもう1つのキーワードは「大人とスポーツ」の関係だということもわかります。
かくれんぼには基本的に大人を夢中にさせる要素がありません。
それはなんでしょうか。
勝利の喜びです。
他者と競争し、自分が一歩でも先にでることの達成感を知ることです。
さらにいえば、そのための練習に励んでまでやる価値があるのか。
それらがこの遊びにはないのです。
だから大人たちはかくれんぼをしないと考えればいいでしょう。
その反対に、スポーツの練習をする理由はなぜなのか。
勝敗をきめることの意味はどこにあるのか。
ここにポイントをしぼってください。
勝敗の意味
極端なことをいえば、小学生低学年でも、もうかくれんぼなどしないかもしれません。
ゲームといえば、もっぱらテレビゲームです。
最近はスポーツなどと言い換える人もいますね。
聞いたことがありますか。
「eスポーツ」という表現を多くの人が口にします。
身体を使ってするのがスポーツの定義だと考えている人にとって、随分ふざけた話にきこえるかもしれません。
しかし両者の領界は明らかに崩れています。
そのこともおさえておいてください。
今や、あらゆることがスポーツの領域の中に組み込まれているのです。
人間は勝ち負けに関わることが好きなのです。
競争といってもいいかもしれません。
我慢をして禁欲をし、さらに勝利の喜びを強くするのです。
マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本をご存知でしょうか。
反営利的な倫理のあり方こそが、近代資本主義を生んだという起源の説明をした本です。
逆説的な言い回しですね。
組織的な資本主義はある意味で、競争の原理で動いています。
その根本にあるのが、設定されたルールの中で、勝利するために自己研鑽を積み重ねるという近代の図式です。
そのかたちの延長が、まさに近代のスポーツを支えてきました。
しかしそれもコマーシャリズムの持つ怒涛のような流れの中で、今日崩れようとしています。
金銭になるスポーツの概念は、ある意味、おにごっこの対極にまで来てしまったのかもしれません。
それはまずいという指摘も、同時にここでは可能でしょう。
いずれにしてもスポーツが持つ競争との和合は、かくれんぼのような遊びとは、全く交わらないという事実をきちんと見つめつつ、文章をまとめることが大切です。
簡単なようでいて、きちんとポイントをおさえないと、先には進めません。
1度自分で試みてください。
ちっともやさしくはありません。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。