凄みのある文
みなさん、こんにちは。
元都立高校教師、すい喬です。
現在、入試があちこちで行われています。
コロナ禍で神経の疲れることばかりです。
当日、熱が出たらどうすればいのか。
試験会場まで無事に辿り着けるのかどうか。
心配をし始めたらきりがありません。
人生は1度きりですからね。
なるべくなら失敗をせずに平穏に過ごしたいものです。
しかしそうは問屋が卸しません。
やはり難問は次々と降ってかかるのです。
大学入試の形も変わりつつあります。
センター入試の後を受けて、大学入学共通テストというのが始まりました。
今年は特に難しかったようですね。
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発表によれば平均点が軒並み下がっています。
なかでもイヤだったのは記述式の問題を増やすという話だったでしょう。
実際はそれほどに多くはありませんでした。
常識で考えればよく分かります。
採点に費やす時間がものすごく増えるのです。
国立大学の2次試験はまさにそれです。
東大の国語などを解いてみたことがありますか。
全部書き込むのです。
文字数の制限のない問題もたくさんあります。
つまり書けるなら書いてみなさいというスタンスです。
採点のことを考えたら、かなりの勇気がないと出題できません。
いい問題
試しに1度やってみてください。
実によく練られたいい問題ばかりです。
一言でいえば、凄みのきいた文章ばかりが出題されています。
どの問題も行間をよみとる訓練をしていないととても歯が立ちません。
読んですぐにわかるような簡単な文章ではありません。
自分が持っている知識や世界観を全て取り去って、虚心坦懐に向かわないと、論点が見えてこないのです。
とても難しいです。
それでも解答し終わると、ある種の爽快感があります。
入試で爽快感というと、随分ふざけた話に聞こえるかもしれませんが、そうとしか言えないある種の感覚です。
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これは実際に問題をといてみればわかります。
脳をフルに回転させるという感じに近いのかもしれません。
共通テストが狙っているのもそういう類いのものなのでしょう。
しかし今年の試験問題をみる限り、書かせるというタイプのものにすぐ移行する気配はありませんでした。
しかしいずれはそちらへ向かいたいのでしょうね。
論理で穴を穿つように前へ進んでいくのです。
そういうタイプの入試問題にしたいのに違いありません。
日本人が論理的にものを考えるのを苦手にしているというのは以前からずっと指摘されてきました。
PISAショックと呼ばれているものです。
なんとかして世界標準にまでもっていきたい。
それが文科省の方針なのです。
論理国語
その一環として考えられたのがこの春から始まる新しい高校の指導要領です。
今回の話は論理国語と文学国語についてです。
この科目は高校2年生からの選択科目です。
今年、入学する生徒が2年になってから習う授業ということになります。
どちらも4単位あるのです。
つまり週に4時間設置しなくてはなりません。
あなたが学校関係者ならどちらを配置しますか。
両方は無理です。
他に、古典なども置かなければなりません。
いわゆる、小説や詩を扱わないという選択肢が可能なのかどうかです。
教師は文学好きの人が多いですから、当然「文学国語」を配置したいでしょう。
しかし親が認めるかどうか。
受験を志向している生徒の親は、文学国語しか設置しないという学校の方針に納得するのかどうか。
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入試はますます論理的な文章に偏っていくでしょう。
当然、評論がメインになります。
現在は小説なども問題になっています。
しかしそれもやがてはより実用的な文章に置き換わる可能性さえあるのです。
としたら、学校も苦慮の末、論理国語に傾いていくでしょう。
その結果として、人間の心の中を探っていくような繊細な小説は扱われなくなる可能性があります。
作品でいえば、中島敦『山月記』、夏目漱石『こころ』、森鴎外『舞姫』、梶井基次郎『檸檬』などです。
その他にもたくさんの小説や詩があることと思います。
副教材
最悪の場合、小説などを含んだ副教材を持たせる可能性も出てきますね。
評論を少し脇へやって、その分を小説にするとか。
国語表現などの一部を削って、文学作品を扱うことも考えられます。
教科書もこれから見本版が次々と出てきます。
その時点で何がどのように変化していくのか。
今の段階でははっきりしていません。
昨年の秋頃に大きな問題がありました。
第一学習社が1年生用の教科書に小説を5本入れました。
本当は禁じられていたのです。
これが検定を通過したという話は、出版社にとって1つのトラウマになっています。
このあたりの事情についてはリンクを貼っておきます。
読んでみてください。
今回、教科書会社が素直に文科省の指示通りに動くかどうかはわかりません。
いずれにしても凄みのある文章を読まないと力がつかないのは明らかなのです。
ほとんど噛まずに食べられるような離乳食に似た教材は意味を持ちません。
最初は何が書いてあのかわからず、それでいて噛めば噛むほど味のでてくる文学作品が生き残れるのかどうか。
若い時代に人間の持つ複雑な内面を知ることは無駄ではありません。
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もちろん、論理が不要だといっているワケではないのです。
その両面をうまく使いながら、新しい選択肢を切り開く努力をしなくてはならないでしょう。
もちろん、小論文の骨格は論理です。
それ以外にはありません。
評論もそれに尽きるでしょう。
あとは読者が理解しやすくなるための例示を散りばめてあるだけなのです。
ポイントはそれほどに長くはありません。
そこがすぐに見つけられる人なら、国語は伸びるはずです。
行間を読むためのスキルを身につけてください。
国語が伸びれば、他の教科に波及します。
時間がないということはありません。
始めるなら、今からです。
今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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