【学問の意味】司馬史観を核にして新撰組から福沢諭吉までを紐づける

学び

勉強って何?

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は勉強をすることの意義について考えてみます。

学問という言葉を使うと、ちょっと恰好がいいですかね。

元々、学問とは何のためにするものなのでしょうか。

なぜこんな話を突然持ち出したのかといえば、司馬遼太郎の『燃えよ剣』を読んだからなのです。

お読みになったことがありますか。

彼の本はどれも面白いです。

読み出したらやめられません。

司馬遼太郎には明治維新前後のことを書いた小説がたくさんあります。

西郷隆盛を扱った『翔ぶが如く』。

高杉晋作が主人公の『世に棲む日々』

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坂本龍馬主演の『竜馬がゆく』

最後の将軍にスポットをあてた『徳川慶喜』 

この他にもたくさんあります。

新選組に関する小説もたくさんありますね。

文字通り、『新選組血風録』という小説もその1つです。   

ぼく自身、もともと新選組に対してあまりいいイメージを持ってはいませんでした。

確かに彼らがいなければ明治維新がもっと遅れていたかもしれないという考え方もあります。

あるいは薩摩と長州が同盟を組むなどということもなかったとも言えます。

そういう意味では十分な功績を歴史上に築いてはいます。

皮肉な話

もちろん褒められるようなことばかりをしたワケではありません。

元々、跳ね返り者の集団です。

それだけ徳川の土台が腐っていたのです。

天然理心流などといっても田舎剣法の一種だったのでしょう。

千葉周作道場の北辰一刀流とは、その考え方も規模も違います。

近藤勇は彼の剣法の基本を「気組」であると表現しました。

それくらいにしか言い表せない質のものであったと思います。

いずれにしても彼らの活躍した時代があったということは、歴史上のまぎれもない事実です。

司馬遼太郎は特にこの時代を生き抜いた坂本龍馬と土方歳三が好きだったようです。

彼らを主人公にした作品には、大いに魅力があります。

最後まで貫き通した愚直なまでの信念を、司馬は心から愛していたと思われます。

それは学問を修めたものにはない、ある種の勘に頼るものであったのかもしれません。

最後に函館五稜郭に籠った榎本武揚は土方のような人間を初めてみたのです。

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ヨーロッパを自分の目で見、近代というものを体感した榎本にとって、土方は理解できない類の人間でした。

新選組の副長に理論はありません。

同じ道場で稽古をした近藤勇が進む後をついていくだけが人としての道だったのです。

幕府の最前線に立ってしまうという歴史的任務も彼らの野心とは別のものです。

ほとんど偶然のように後から飛び込んできたものでしかありません。

会津の屈強な武士も近代戦には勝てませんでした。

最後に切り込む白兵戦に持ち込むところまでの武器を彼らは持っていなかったのです。

司馬遼太郎は何度も書いています。

人間は理論ではなく結局好きか、嫌いかであらゆる行動をするのかもしれないと。

どんなに学問を身につけても、それが五臓六腑にまで染みこんでいなければ、その人間を根本から変えることはありません。

学問は予見の道具

学問は過去に遡行し未来を予見するためにあります。

つまり昔のできごとにまで遡り、そこで何があったのかを十分把握し、再び未来への可能性を探るということです。

それは同時に自分の身を守る防波堤にもなります。

学問がたんなる理屈で終わってしまったら、それは空しい作業に終わるだけでしょう。

まさに空理空論がもたらす結末です。

徳川300年の間に旗本はまったく使えなくなりました。

彼らの学んだものとは何だったのでしょう。

勝海舟がいなかったら、江戸城での戦さがあったかもしれません。

学問には根本に哲学が必要です。

逆にいえば哲学を持たない学問は、猿の知恵と同じです。

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人間の器量は最終的に学問でははかれないものです。

だから人を判断するのは難しい。

学歴などで判断ができるのなら、こんなに簡単なことはありません。

そんなものではないのです。

学歴などはごく表層的なものにすぎません。

司馬遼太郎は土方歳三という男に1つの器量の形を見たのでしょう。

やがて倒れるべき自分を予見しながら、死地に赴いた彼の横顔には鬼神が見えます。

この作品を読んでいると、学問を積むとは何かということを、最後まで考えざるを得なくなります。

みなさんは松下村塾に行ったことがありますか。

実に粗末などこにでもあるような建物です。

あそこから明治の指導者が輩出したというのが不思議なくらいです。

吉田松陰という指導者がいなければ、意味のない空間だったに違いありません。

哲学のない時代だったからこそ、哲学を持って学問をした人間の重みがあったのです。

現代の学び

福沢諭吉の本で1番面白いのは『福翁自伝』です。

難しい本だと思っている人もたくさんいるでしょうね。

そんなことはありません。

実にざっくばらんで愉快な本です。

彼はどのようにして世の中の先を見たのか。

やはり咸臨丸に乗ってアメリカへ渡ったことが大きかったでしょうね。

福沢は国家が成り立つための基本的なシステムを見たのです。

政治や経済がどのように構成されているのか。

なぜ機能するのか。

それを必死に見て回りました。

建築物や名所名跡などはどうでもよかった。

帰ってきてから学生にそれを話しました。

ウェブスターの辞書を写した話も有名ですね。

では、これからの時代の勉強はどのようなものなのでしょうか。

AIと共生していくための学問をしなければ意味がありません。

記憶をするだけの勉強はいずれ消滅してしまうでしょうね。

人間にできることは、作り出し創造することだけです。

たくさんのパラメーターの中から、大切なものを取り出し、それを相互に繋げる。

その視界が正確であれば、破綻はしません。

今壊れつつあるものは、全て予見にミスが混入していたと考えた方がいいです。

一言でいえば甘く見ていたのです。

これからはポイントを定めて絞り切る気概をもった勉強や学問がその地位をあげていくでしょう。

それは何か。

あなた自身で考えてみてください。

脱炭素の時代です。

エネルギー1つにしても、根本から見直さなければなりません。

勉強することはいくらでもあります。

先生の言うことだけを聞いていてはダメです。

直感こそが生き残るためのキーワードです。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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