【みんな違ってみんないい】多様性を認め合うことで世界は共存可能

学び

多様性を認める

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今までにいろいろな国の人と話をしてきました。

国際交流の仕事をしていたので、そのためのイベントもかなりお手伝いました。

国費留学生を招いてのパーティとか勉強会とか。

日本語のスピーチ大会に招待してもらったこともあります。

アラビア語の勉強会にも参加しました。

ハワイから高校生を招待したこともありました。

本場のフラダンス披露してもらったのです。

geralt / Pixabay

本当に美しかったですね。

彼らの持つ時間間隔が日本人のものとは全く違うことを実感しました。

もちろん、こちらからアジアの国を訪ねたことも数多くあります。

JICAの研修でマレーシアのパーム椰子の農場にも行きました。

中国では授業をしたこともあります。

とにかく世界は広いです。

日本は島国で単一民族ですから、外国の文化についてよく知りません。

これほど多くの人たちが海外旅行をするのに、視線はつねに自分たちの仲間か、買い物に向いているようです。

香港から来ていた留学生と話をしていて、たまたまプレゼントの話になったことがあります。

ここで質問です。

中国人に贈ってはいけないプレゼントとはさて何でしょうか。

不吉なイメージ

ヒントは音からくるイメージです。

例えば「傘」はさんと読み、「散」につながるのだそうです。

だから散り散りになってしまうというイメージなのでしょうか。

贈ってもあまりいい顔はされません。

同じように「時計をあげる」という言葉は、発音が「死にそうな両親の世話をする」と類似するそうです。

プレゼントの中では最も避けなければいけないアイテムのようです。

腕時計なら大丈夫という話も聞きました。

特に大きな時計はいけないみたいですね。

ただしこれも若い人の間ではあまり気にしない人が多くなってきたという話もあるようです。

またハンカチも時に別れを示すのでいやがるそうです。

数字でも日本や韓国では4と9を嫌います。

ある時、日本人の生徒が何気なく相手の名前を赤いボールペンで書いたことがありました。

韓国人の生徒はイヤな顔をしていましたね。

これは死者を意味するのだそうです。

日本でも生きているうちに自分の墓石を建てる人がいます。

そういう時に、掘った名前を赤く塗るのを見かけます。

あの元の意味なのかもしれません。

赤と黒は生死を分ける色なのでしょうか。

ヨーロッパでは13が不吉な数です。

かつてアメリカに行った時、13日の金曜日に飛行機に乗りました。

確かに空いていました。

ジャンボのひじ掛けを全部おこして寝られるくらいでしたからね。

プレゼント

一般にアジアの国々ではプレゼントをもらってもすぐに開けるのは、貪欲ととられかねません。

しかしアメリカ人などはすぐ他人の前で開けます。

むしろそうでないと、失礼にあたるのです。

日本でも若い人はごく自然にその場であけています。

「大変つまらないものですが」とか「愚妻ですが」などという謙譲表現を使ってへりくだるというのも儒教の流れなのでしょうか。

尊敬、謙譲、丁寧がきちんと使い分けられれば、日本では一人前の大人という扱いになります。

それくらい言葉遣いは難しいですね。

アメリカ人などが自分のボスを敬称なしに使っているのを見ると、不思議な感覚に捉われます。

ところで不浄などということについても、宗教上の問題は根深いです。

ヒンズーやイスラムの世界では左手は不浄の手なのです。

大切なものは右手で受け取らなければいけません。

もちろん左手で、頭をなでるなどという行為は、考えられないことです。

また挨拶でもお辞儀をする文化もあれば、軽く抱きあって、キスをする文化もあります。

代々木上原にあるJICAの施設にも何度か泊まりました。

研修を受けたこともあります。

所属していた会の研究会などでも借りました。

階下にある食堂へいくと、ハラルミートがいつも別の献立になっていましたね。

なんの肉でも食べていいというわけではありません。

宗教が違えば、おのずと許されない食材があるのです。

イスラムの人たちは豚肉を絶対に食べません。

豚肉以外の牛肉、鶏肉、羊の肉なども特別に祈りを捧げたものだけなら許されるとしています。

もちろん、祈るのはイスラム教の神父に限られています。

ぼくは断食月のラマダンの様子を直接みたことはありません。

しかしそれを経験した人たちの話は何度も聞いたことがあります。

しきたり

その国に行ったら、やはりその国のしきたりに慣れていかなければ、なかなか彼らの文化を理解することはできません。

豚がまったくダメな国もあれば、牛がダメな国もあります。

そうかといえば、四つ足ならば、テーブル以外はなんでも食べるという国もあります。

犬も蛇も蛙もまったく彼らは気にしません。

ぼく自身、今までに何度か手で食事をしたこともあります。

皆が器用に指を使って食事をしている時、逆に自分だけスプーンや箸を使うのはおかしなものです。

お隣韓国には食器を手に持って食べるという習慣がありません。

全てテーブルの上に置いたまま、食事をします。

日本人の発想でお茶碗などを手に持つと、それは大変品の悪いことであると聞きました。

あるいは割り勘という思想もないようです。

今日の食事代は出席者の中の誰かが持つと決めたなら、その人が全てを払うのです。

それが合理的でないという話とは全く別のものです。

とにかくそれが韓国の文化なのです。

中国にも似たようなところがあります。

相手の面子をつぶさないために、たとえ自分より収入が少なくても、相手が払うといえば、それに従わなければいけないのです。

実際、中国で御馳走になった時、金銭を払うことはありませんでした。

最近ではその風習も次第に緩やかになっているそうです。

アフリカに行った時も、楽しいのならそれを身体で表現し、一緒に踊って欲しいと言われました。

そうでないと彼らは納得しないのです。

とにかく一緒に踊ることで、現地の人の感情が昂揚するのだといわれました。

イスラム圏の国を旅した時は、朝から大音量のコーランを聞き一緒に水をかぶりました。

高速道路の休憩所ではトイレと祈りの前に足を洗う施設を間違えそうになってあわてたこともあります。

しかしぼくはそういう違いを知ることが、本当の国際理解だと思います。

皮膚の色も違い、考え方も違いますが、人間はどこか共通の感情を持っています。

相手に敵意を持っていない限り、なんとか自分たちの誠意を伝えようと必死になるものです。

言葉が伝わらなくても、感情はきちんと気配でわかります。

ネズミをたべろと勧められたことや、毛の生えたままの鹿の足を食べさせられたこともあります。

しかしそれもこれも含めて、やっぱり違うことは楽しいです。

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それを認め合うことから本当の人間の付き合いが始まるのではないでしょうか。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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