【人は無力】できることはただ敬虔な祈りを捧げることだけです

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業平のこころ

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師のすい喬です。

今日は祈る話です。

これは諦念を意味するのではありません。

全てを諦めてただ祈ろうというのとは違うのです。

人間はあまりにも無力で哀しい存在だと言いたいのです。

古文を長く教えていたので、つい昔の本の中にあった言葉が出てきます。

『伊勢物語』には象徴的な表現がありますね。

中世の歌物語です。

在原業平が主人公の話です。

つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを

なんとも悲しい歌です。

いつかはいかなければならないところとは誰もが知ってはいるものの、まさかこんなにすぐ来るとはという意味です。

知った人がどんどん亡くなっていきます。

以前から人は次々と死に至っていたのでしょう。

しかしそれは遠い世界のことでした。

しかし近年は自分の年齢とそれほどかわらない人が鬼籍に入っていきます。

毎日、新聞やニュースをみていると、あの人も亡くなったのかとつい感慨にふけってしまうのです。

人の死に例外はありません。

誰にでも訪れるのです。

しかし、昨日今日とは思わなかったという表現は実感に満ちていますね。

この世への思い残しキップを握って、死出の旅にでたのでしょう。

なんにも思い残すことがなかったという人はいないはずです。

特にコロナ禍の中、突然亡くなる人の話を聞くにつけ、つらい思いが増します。

桜の歌

業平は「源氏物語』の主人公光源氏のモデルだと言われています。

美しい容姿を誇った美男の典型です。

天才肌の人だったのでしょう。

多くの優れた歌を残しています。

大好きな歌の1つに次のようなのがあります。

世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

世の中に桜がなかったら、春の日々はもっとゆったりと暮らすことができただろうにという意味です。

「せば~まし」というのは反実仮想と呼ばれ、一種の仮定法です。

桜があるから本当にせわしなくて仕方がないというのです。

桜の美しさを裏側から歌った和歌ですね。

これほど潔い花はそうはないでしょう。

コロナウィルスが蔓延する前は、毎年のように奈良や京都を訪れていました。

桜を見るためです。

ここ2年間、出かけていません。

昨日もBS番組で吉野の桜を中継していました。

いいですね。

あまりにも美しくて悲しくなる。

平安神宮の紅枝垂れ、醍醐寺の桜、北政所ねねの寺としても有名な高台寺の桜。

銀閣寺からの哲学の道、法隆寺の参道。

暖かな春の光の中を歩いているだけで、幸福な気持ちになれます。

これほどに人の心を搔き乱す花はそれほどにありません。

谷崎潤一郎が『細雪』の冒頭に描いた平安神宮の花見のシーンは、まさに心の中の原風景です。

桜の下には死人が埋まっていると書いた作家もいました。

むべなるかなと思わせますね。

祈る心

かつては祈ることと無縁の世界に生きていました。

たいていのことなら自分の力でなんとかしなければならないと考えていたからです。

またそれくらいのことができなければ、人はこの長い旅を無事に終えられないとかたく信じていたのです。

だから無理をしてまで祈らなかったのです。

他力本願は日本人の得意とするところです。

しかしそれでは逃げることになると自戒をこめてきました。

人間にはもともとできることとできないことがあります。

当然のことながら運の善し悪しということもあるのです。

努力をしたからといって、全てが結果に結びつくというものでもありません。

確かに只管打坐をじっと瞑目して続けることで、自分の道を切りひらいていける人もいるのでしょう。

ご存知ですか。

geralt / Pixabay

ただ目をつぶってじっと座禅を組むことを「しかんたざ」といいます。

人はそれほどに強い生き物ではありません。

風が吹けばすぐに倒れてしまうのです。

心ない言葉を浴びせられて、神経を病み精神の不調をきたす人もいます。

人は結局は祈るしかないのかもしれないということに気づき始めました。

ここまでに随分長い時間がかかったのです。

古文はそういう意味で祈りに満ちています。

かつて人の命は短くはかないものでした。

若くして亡くなる人が大勢いたのです。

それは今でも基本的に何もかわっていません。

確かに寿命は延びました。

しかし不老不死の薬はありません。

子を失う悲しみ

子をはやくに亡くし、それでもなお忘れられずに祈り続ける親の様子が『土佐日記』にも出てきます。

紀貫之は国司として土佐の国に派遣されました。

しかし子供が早くに亡くなってしまったのです。

忘れようとしても忘れられないのが人間です。

一緒に京都へ連れて帰れなかったことがどれほどつらかったか。

謡曲『隅田川』にも子供を失い狂っていく母親の姿があります。

かつて歌舞伎でも観ました。

先々代の中村勘三郎と中村歌右衛門のしみじみとした芝居に心うたれたものです。

ここまで人の哀しみを表現できるのだと感心しました。

ましてやこういう時代です。

いつ何時、肉親や知人が災害、事故にあうかもしれません。

ミャンマーの惨状はあまりにもつらすぎます。

健やかに生きていこうとしても、それが十分にはできないのです。

天災も多いです。

コロナのような感染症や病気も数知れません。

仏像のあの静かな姿を見ると、心が穏やかになるのはなぜなのでしょうか。

彼らが人の苦悩を一身に背負ってくれているからなのか。

祈りはどの宗教にも共通です。

ヨーロッパを訪れた時も、たくさんの教会を訪れました。

祈らない人間はいません。

神はいるのか。

あるいは不在なのか。

しかし祈りたいとする人間は確実に存在するのです。

祈らずにいられない人間が無数にいるという事実がまさにこの世の真実なのでしょう。

彼らの中には神が宿っています。

仏がいます。

同時に恩寵としての音楽も欲しいですね。

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祈ることを忘れていた日々から、久しく時がたち、また祈る人間になろうとしている自分がいることに驚いています。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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