【ご理解とご協力】言葉には無言の圧力が宿っている【不要不急】

ノート

不要不急

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

コロナ禍の中、どのようにお過ごしですか。

少しずつ春めいてはきましたが、三寒四温を絵に描いたようです。

2度目の緊急事態宣言下に入ってから随分とたちました。

いつになったら解除されるのか、誰にもわかりません。

ワクチンの接種も始まりましたね。

しかしその効果がいつになったら出るのか、それも全て神の思し召し次第というところです。

陽性者数がどの程度になったら、規制が緩和されるのか。

あるいは3月中もずっと続くのか。

それもこれも全てわからないというしかないのです。

ここまで生活が激変してしまうと、ストレスも相当たまります。

間もなく桜が咲き出したら、どうなるのでしょうか。

堰を切ったように皆が外に飛び出したくなります。

再び蔓延の危機に陥るかもしれません。

コロナウィルスに対する危険性が叫ばれるたびに同じ表現が何度も繰り返されました。

「不要不急」がそれです。

この言葉を何度聞いたことでしょうか。

もう飽きてしまいました。

人の行動をじっくり観察すると、不要不急なことの積み重ねで形成されているような気もします。

どこまでが有要なのかといわれると、首を傾げざるを得ません。

それほどに意味を持った行動をしているようにも思えないのです。

近所を散歩するのも意味があるといえば、いえないこともありません。

しかし無駄な行為だと言われれば、そうかもしれないと不安になります。

シジフォスの神話

カミュに『シーシュポスの神話』というエッセイがあります。

日本人にはシジフォスの方が言い慣れているかもしれません。

神を欺いたことで、シーシュポスは怒りを買ってしまいます。

そこで彼は大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けました。

シジフォスは神々の言いつけを守り岩を山頂まで運びます。

ところがそれを達成した瞬間に岩は再び転がり落ちてしまうのです。

何度繰り返しても、同じことが続きます。

カミュはここに人間の不条理を見ました。

なんのために生きるのかという永遠の命題です。

死に向かってひたすら行進をしながら、それでも生き続けなくてはなりません。

それが人間の運命なのです。

どれほどの意味があるかわからない行為を、日々繰り返しているだけに過ぎないのかもしれません。

そこまで言い切ってしまうとあまりに悲しいですけどね。

そこで人は「有要有急」だと自分に言い聞かせ、毎日を生きています。

もちろん、こんな言葉はないですけどね。

あえて反対語をつくればという話です。

しかしその内実は不要不急なのかもしれないのです。

その実態は誰にもわからないでしょう。

旅にしてもそうです。

旅程が全て定まり、ツァーガイドがきちんと案内してくれる類いのものより、行き当たりばったりで過ごす方が、得られたものが多いという話はよく聞きます。

もちろん、簡単には決められないでしょう。

geralt / Pixabay

しかしそんなことも十分にありそうだとつい納得してしまうのです。

そう考えると何が不要不急なのか、全くわからなくなります。

もちろんそこまでつきつめていつも行動しているワケではありません。

それくらいのことは十分に理解しているつもりです。

しかしそれでもあえて、自分の現在していることにはどんな意味があるのかと考えてしまいます。

全てを金銭に換算するような暮らしをしたくはないですね。

喜捨とか利他の精神を忘れたくはないからです。

だからこそ、この「不要不急」という表現が強く耳に残るのです。

ご理解とご協力

毎朝、電車の中で聞かされる文句がこれです。

だいたいスマホの使い方とかバッグの持ち方が多いですね。

コロナになってからマスクの話もあります。

あるいは車内換気のススメとか。

全てのアナウンスが終わると、最後に必ず乗客の皆様のご理解とご協力をお願いしますと車掌が呟きます。

もちろんとりたてて不平はありません。

アナウンスの内容は至極まともなものだからです。

本など読んでいる時、近くで電話をされるのは誠に迷惑です。

それは全くその通りなのです。

しかしどうしてもこの「ご理解」「ご協力」という表現には愛着が持てません。

確かに理解をして、協力をしなければならないのはもっともなのです。

反対はできません。

それでもこの言葉にはどこか有無を言わせぬ権威のようなものを感じます。

慇懃に呟いているだけに、かえってそう感じるのかもしれません。

これくらいのことは理解できるだろう。

だったら必ず協力しろよと背後から囁かれているような気さえするのです。

これはぼくだけの僻みかもしれません。

そんなことは毛頭考えず、ただ挨拶の一環として使っているだけに過ぎないのでしょう。

しかしこの表現の出てくる場面を思い出すと、これでも不平があるのかという時にだけ、使われているような気がして仕方がありません。

いつも理解できるわけではないし協力もしたくないと思いつつ、しかしそれは人間として許されないことだと、皆が認識しているシーンだけに特有な表現のように思えます。

考えすぎでしょうか。

言葉の力

世の中には理解も協力もできないことが、山のようにあるような気がして仕方がない昨今です。

やはりこれも僻みなのですかね。

あえて言えば、言葉の暴力に近いような気さえもします。

国会議員の答弁などを聞いていると、もう終わりだなと時に感じます。

こういう答弁書を作り出す役人の脳ミソというのはどういう組成をしているのか。

国家公務員になってまさか自分がこんなことをするとは思ってもみなかったことでしょう。

何を言っているのかわからない表現を毎日書いていたら、きっと心寂しくなることでしょうね。

geralt / Pixabay

それも仕事のためだと言われれば何も言えません。

いってみれば曖昧にぼかして言い抜ける表現のプロです。

更迭を異動と言い換え、総合的、俯瞰的に精査して、さらに記憶にないというすごい腕前です。

そして最後にご理解とご協力を賜りたいと言われたのでは、どうにもなりません。

慇懃無礼という表現があります。

そこまでのレベルにも達していないのです。

全く刺さらない言葉の羅列です。

かつて三島由紀夫が大蔵省にいた頃、苦労して書いた文書を先輩の上司にほとんどなおされたという話を読んだことがあります。

役人の書く文書は後ろ指をさされるものであってはならないのです。

どこにも穴のない出口の見えない文章をまとめ上げると最後にどうしても、ご理解とご協力がついてくるのではないでしょうか。

なんとなくそんな気がしてなりません。

そこへもってきて無神経な表現を使われることがあると、無言の圧力と感じる機会が増えるのです。

そんな気がしてなりません。

言葉は怖いです。

それだけの破壊力を持っていますからね。

今回も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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