国語表現の授業
みなさん、こんにちは。
小論文添削歴20年の元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は日本人論の話をしましょう。
内田樹の『 日本辺境論 』を題材にして国語表現の授業をやったことがあるのです。
食指を伸ばしそうな新書を毎回紹介してきました。
その時のテーマが日本人論だったのです。
小論文の問題にもよく出ます。
日本人はとにかく民族論が大好きです。
どうしてでしょうね。
よほど他の国民とは違うと思っているのかもしれません。
あるいは自分たちが変わっていると信じたいのかもしれないのです。
代表的な日本人論をいくらでもあげることができます。
『甘えの構造』『菊と刀』『縮み志向の日本人』『日本人とユダヤ人』『タテ社会の人間関係』など。
どれか読んだことがありますか。
いずれもなるほどと感心させられるものばかりです。
是非一読を勧めます。
小論文のテーマとして本当によく出題されるのです。
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どの本も今や古典ですね。
少なくとも日本人を語る時には、この中の数冊は読んでおかなくてはいけません。
日本人論は入試で最も好まれる題材なのです。
民族に対する興味や関心をどの程度持っているかの指標にもなるからです。
さて、その推薦図書候補に追加するとすれば『日本辺境論』でしょうか。
この本はベストセラーになり、出版された2009年の新書大賞まで獲得しました。
著者の内田樹は『下流志向』でのヒット以来、向かうところ敵なしのようにも見えます。
辺境論の主題
ポイントは日本人とはどういう性格の民族なのかということです。
一言でいえば、他国との比較を通じてしか自国の目指す国家像を描けないということです。
当然、国家戦略も語れません。
絶えずあちこちをキョロキョロしているだけなのです。
これが最新の流行だと言われれば、すぐに飛びつき、しばらくすると飽きてしまいます。
その繰り返しをずっと続けてきた民族だというワケです。
これが世界の標準だなどと強く主張することなどはありません。
ただ他国の様子を見ながら、追随するだけなのです。
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よく笑い話にありますね。
もうすぐ転覆する船にさまざまな国の人が乗っています。
全員海へ飛び込んでもらうためにかける言葉は何が適当かというものです。
皆さんも考えてみてください。
乗っているのは、アメリカ人、イギリス人、ドイツ人、イタリア人、フランス人、日本人の6カ国の乗客です。
正解はこうです。
アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ」と言い、イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」と言います。
ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています」と言えばOK。
イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」
フランス人には「飛び込まないでください」と言うのがよいそうです。
では、日本人には何と言えばよいでしょうか。
答えは「みんな飛び込んでいます」です。
よく例に引っ張りだされますが、メダカ社会と揶揄される理由はこのあたりにありそうです。
日本人はダメなのか
内田樹は日本人を否定しているのでしょうか。
そんなことはありません。
むしろ開き直っています。
他の国のようにならなくていいと言っているのです。
というよりなろうとしてもなれないのが日本人なのかもしれません。
一番感心したのは、日本語や、文字の成立そのものについての記述です。
日本語は漢字という表意文字とひらがなという表音文字を縦横に駆使しています。
今ではあらゆる概念を全て表現できるといってもいいのです。
フィリピンやベトナムでは、英語を使わないと複雑な哲学的概念を示すことはできません。
英語ができなければ、知的な職業にもつけないのが実情です。
ちなみに日本ではそんな状況にはありません。
韓国では文字を全てハングル化してしまったために、過去の漢字が入った文献を若い人達が読めなくなっているといいます。
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明治に入って、あらゆる外来語は日本語に翻訳されました。
それは進んでいる国からきた考えを、遅れたこの国へ広く伝搬させるために、不可欠なことだったのでしょう。
漢字2文字の訳語はほぼ、この時期の人々によって翻案された言葉と呼んでさしつかえないのです。
けっして文化的に劣った民族ではありません。
それなのに日本はつねに辺境にあり、遅れた国であるというある意味でがんじがらめになった思考から未だに脱却できていないと筆者は言います。
新しい思潮があれば、すぐにそれを取り入れ、自分たちのものにしようとします。
いつも新しいものを探しているのです。
しかし、自分たちが最前線に立つとなると、完全に言葉を失ってしまうのです。
それこそが辺境国家たる所以なのでしょうか。
翻訳されない小説
その証拠に日本人の感性を縦横に駆使した作家達の小説は外国語に翻訳されていません。
司馬遼太郎、藤沢周平、池波正太郎などの小説はほとんど日本語だけなのです。
いくら翻訳したとしても、それらを扱おうという出版社がありません。
面白い現象です。
村上春樹のようなある種、無国籍的文学には外国人も飛びつきます。
しかし根のところにしっかりとこびりついた日本人的感性をまとったこれらの作家たちのものは、ダメなのです。
その価値を理解できません。
吉行淳之介、島尾敏雄、吉本隆明、江藤淳なども、みな同様です。
日本人的感性を理解できないということなのでしょうか。
日本独自の師弟関係も他の国にはほとんど存在しません。
特に日本の芸能などを研究している外国人にとっては謎なのです。
内弟子として住み込みで芸を学ぶなどということは他国では考えられません。
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そういう意味では確かに自虐的な本です。
だからこそ、日本的な日本人論になり得たのかもしれません。
生徒も日本人論は好きです。
自分の国の特殊性にむしろ感動したようです。
世界のだれにも理解されないことに酔いしれる日本人という構図は、いったい何を物語るのでしょうか。
実に不思議な感性ですね。
翻訳されないことがむしろ嬉しいというのはどこからきているのか。
結局自分たちのことは自分たちにしかわからないという島国根性なのかもしれません。
辺境にあることで自足していられるほど、もう世界は広くはないと思います。
みなさんはどのようにお考えですか。
この問題はいろいろな形に変化しながら、小論文の問題として出ます。
少し考えておいてください。
実に興味のある視点ではないでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。