動物と人間
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は動物と人間の差について考えてみます。
人間は自らを万物の霊長だといって、他の動物を見下してきました。
確かにホモサピエンスの脳は大きく優れています。
あらゆる動物の中でも突出しているのです。
あなたはイリュージョンという言葉を聞いたことがありますか。
今では本当にいろいろな意味で使われていますね。
直訳すれば幻想、幻覚、幻影、錯覚などです。
よくマジックなどでも、イリュージョンという表現を使っています。
幻影、幻覚という意味です。
ここでは動物行動学者、日高敏隆氏の文章を読みながら、人間と動物との違いを考えてみましょう。
彼の評論はよく教科書に所収されています。
内容が理解しやすく、さまざまな問題提起がなされているからです。
今回のタイトルは「動物と人間の世界認識」というものです。
人間も動物も当然のことですが、世界を認知し、種の生命を持続するために生きています。
しかしその方法は、かなり違います。
そのためのキーワードとして、彼は「イリュージョン」という言葉を使っているのです。
いわゆる直訳型の意味よりも、さらに広がりを持った内容になっています。
わかりやすくいえば、「世界を認知し構築する手立て」とでもいえるかもしれません。
認識のための方法論と呼んでもいいでしょう。
本能と理論
世界は時代とともに変わっていきます。
これが客観的な世界だというものはあり得ないのです。
ところが動物のイリュージョンは知覚の枠によって限定されています。
世界に対して、本能に基づく認識の仕方をしているのです。
ところが、人間は知覚の枠を超えて理論的にイリュージョンを構築することができます。
これが動物と根本的に違うところです。
脳が発達したホモサピエンスは、自分の置かれた場所の意味から、自分自身の知覚にいたるまで検証可能な能力を持っているのです。
人間の場合、世界に対する認知は、次々と変化しているのです。
昨日と今日では、世界の形は変わります。
それを支えるのが科学の役割です。
学者や研究者は日々、何をしているのでしょうか。
何かを探っていることは間違いありません。
毎日、新しい世界への視野を広げる努力をしています。
すなわち、新しいイリュージョンを得ることに腐心し、楽しんでいるといってもいいのです。
イリュージョンが書き換えられることは、同時に世界がかわることです。
新しい世界を開く喜びを提供することなのです。
そうした喜びがきっと人間には不可欠なのでしょう。
それなしには生きた実感を得られないに違いありません。
評論の一部分をここに掲載します。
小論文の問題として扱うことを考えながら、読んでみてください。
あなたなら、どこに着目するか。
キーワードは何かを探すことも大切です。
課題文
人間は本能が破壊された動物だからイリュージョンを持つ、というわけではない。
ちゃんと「本能」を持った動物たち(人間以外の動物たち)も、その本能に基づいたイリュージョンを持ち、そのイリュージョンによって、構築された世界に生きているのである。
イリュージョンは人間の専売特許ではない。
重要なのは、イリュージョンなしに世界は認識できないということである。
「色眼鏡でものを見てはいけない」とよく言われるが、実際には色眼鏡なしにものを見ることはできないのである。
われわれは「動物」と違って色眼鏡なしに、客観的にものを見ることができると思っている。
そしてできる限り、そのようにせねばならないと思っている。
しかしこれは大きな過ちである。
そしてこの「客観的に」とは、すなわち「科学的に」ということだと思ったのも間違いであった。
「科学的な根拠を与えられたイリュージョン」は、昔からいくらでもある。
それによってわれわれ人間の世界認識や世界観、さらに人生観も、大幅に変わってきた。
20世紀前半までの素朴な科学史の本を開いてみれば、その変遷の跡は明瞭である。
その変化が世代間ですら起こるという感覚は、昔からあった。
「今の若者は」といった調子の落書きがエジプトの古い遺跡にも発見されている。
そのようなものは、当然もっと古くから存在したいたものであろう。
しかし問題なのはそういう世代論のごときものではない。
人間では世代によってイリュージョンが変わり、人々はそのときそのときのイリュージョンに基づく世界を認識し、構築するということである。(中略)
地球は平らなものから球体に変わり、動くのは太陽でなく地球だということになった。
もちろん地球自体が変化したのではない。
人間の認識が変化したのである。
今から思えば事実ではなかったことを、あたかも事実だと思っていたのである。
それらの認識はイリュージョンに基づくものだったとしかいいようがない。(中略)
光は粒子であるという理論が成立すると、太陽の輝きに対する認識も変わった。
光は粒子ではなく波であるという理論が認められると、認識はまた変わった。
そして光は粒子であるとともに波であるという、われわれの知覚の枠の中では理解できないことが理論的に説明されると、一部の学者をのぞいては、光はまた昔ながらの光に戻ってしまった。
設問の可能性
今回の文章でどのような問題がつくれるでしょうか。
いくつか設定してみました。
解答を考えてみてください。
問1 古代エジプトの話題は何を示すためのものか。
問2 最後の文で「光はまた昔ながらの光に戻った」とはどういう意味か。わかりやすく説明しなさい。
問3 課題文を読み、科学の役割と世界認識の関係について600字で書きなさい。
とくに最後の問題はかなり難しいと思われます。
最初の2つの設問についても答えてみましょう。
問3についてはさまざまな解答が想定されます。
動物のイリュージョンは、知覚の枠だけに限定されているという基本をまず押さえてください。
それに対して人間のイリュージョンは知覚のレベルだけではなく、推論や理論の枠を大きく抜け出ていくことができます。
科学が、さまざまな可能性を開いてきたのです。
本能にできることは限界があります。
どんなにすぐれた本能を持っていたとしても、その段階からさらに上位の認識を得ることは難しいでしょう。
人間が他の生物と違う特徴は、そこに尽きるのです。
新しい認識の方法が手に入れば、当然、世界の表情が変わります。
古代エジプトにおいても、世界観や常識はわずかの間に変化していました。
光の問題から何が導き出せますか。
幾つもの難しい段階を経て、現在は光は光だという認識に達したという事実です。
かつては天動説でできあがっていた世界が、地動説をとることにより、大きく変化しました。
そのために神の不在にまで議論は発展したのです。
世界の形が変化した瞬間でした。
今日、原子力の力を無視して、国家を論じることはできません。
原発にせよ、原子爆弾にせよ、地球を破壊する威力を持っています。
それをどこまで推し進めてしまうのか。
そこまでイリュージョンの質は変化しています。
それでは研究者はなんのために存在するのでしょうか。
人間は新しい認識を得るために、日々研究を繰り返しています。
不変の真理を得るというよりも、新しい考え方の方向性を探るという行動に、新たな道筋を見いだそうとしているからなのです。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。