【売油翁・帰田録】技術を習熟した先にはそれを超えた高い境地がある

売油翁

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は『帰田録』の中から、有名な一文を勉強します。

これは欧陽脩(1007~1072)が朝廷において見聞した逸話をまとめた著作です。

高校の漢文の授業などでも学習します。

筆者は北宋の文学者であり、名文家でもあります。

最初に書き下し文を載せます。

読みにくい漢字もあるので、注をつけました。

——————————–

陳康粛公尭咨(ちんこうしゅくぎょうし)は射を善くし、当世無双なり。

公も亦此れを以つて自ら矜(ほこ)る。

嘗て家圃(かほ)に射る。

売油翁(ばいゆおう)有り。

担(に)を釈(お)きて立ち、之を睨(み)ること久しくして去らず。

其の矢を発するに、十に八・九を中(あ)つるを見て、但(た)だ微(すこ)しく之に頷(うなづ)くのみ。

康粛問ひて曰はく、

「汝亦射を知るか。

吾が射は亦た精ならずや。」と。

翁曰はく、

他無し。但だ手の熟せるのみ。」と。

康粛忿然(ふんぜん)として曰はく、

爾(なんじ)安(いづ)くんぞ敢へて吾が射を軽んずるや。」と。

翁曰はく、

我が油を酌(く)むを以つて之を知る。」と。

乃ち一葫盧(ころ)を取りて地に置き、銭を以つて其の口を覆ひ、徐(おもむろ)に杓(しゃく)を以つて油を酌み之を瀝(したた)らす。

銭孔より入り、而(しか)も銭は湿(うるほ)はず。

因りて曰はく、

我も亦他無し。

惟だ手の熟せるのみ。」と。

康粛笑ひて之を遣(や)る。

此れ荘生の所謂(いはゆる)牛を解き輪を斲(き)る者と何ぞ異ならんや。

現代語訳

陳康粛公尭咨は矢を射ることが上手で、当時右に出る者はいませんでした。

公もまたそのことを自ら誇りに思っていました。

あるとき家の畑で矢を射ていた時のことです。

油を売る老人がやってきて、荷物を置いて立ち、公が矢を射るのを見てしばらく立ち去ろうとしませんでした。

(康粛が)矢を射て十本中八、九本を(的に)あてるのを見て、ただ少しうなずくだけなのです。

康粛が(老人に)尋ねて言うことには、

お前もまた矢を射る道がわかるのか。

私の射る矢はなんと正確なのだろう。」と呟いたのです。

老人は、

「どうということはありません。

ただ手慣れているだけです。」と答えました。

康粛は激しく怒って、

「お前はどうして私の矢を射る技術を軽くみるのか。」と訊ねました。

すると老人は、

「私は油を汲み取ることを通してこのことを知っています。」と答えました。

そこで一つひょうたんを取り出して地面に置き、(真ん中に穴のあいた)銭でその口を覆い、ゆっくりと柄杓で油をすくって、ひょうたんの中にこれを注ぎました。

油は銭の穴からひょうたんの中に入り、しかも銭は油で濡れなかったのです。

そこで老人は次のように言いました。

「私もまたどうということはありません。

ただ手が慣れているだけです。」と。

康粛は笑ってこれを(許し)立ち去らせました。

このことは荘子が言うところの「牛を解体する人」、「車輪を削って作る人」の話とどうして異なるだろうか、いや異ならないのです。

熟練するということ

登場人物の名前が難しいですね。

姓が陳で名前が尭咨、康粛は亡くなった後につけられた名前です。

公は尊称です。

最後になぜ康粛はこの老人を笑って許したのでしょうか。

ここがこの話のポイントです。

苦笑いをしたというのが本当のところかもしれません。

しかし怒りはなかったと思われます。

一本とられたという感じでしょうか。

最後のところに『荘子』の話がでてきます。

これと同じだというからには、どこかに通じるものがあるのでしょう。

料理名人の話

荘子(BC369年頃~BC286年頃)は、中国戦国時代の宋の思想家です。

『荘子』(そうじ)の著者とされています

道教の始祖の一人とも言われています。

中国の思想家としては偉大な人の1人ですね。

最後に『荘子』にもでてくるというのは料理名人の包丁(ほうてい)が牛を解体する話です。

現在使われている包丁という言葉はこの人の名前からとったと言われています。

牛を解体する技術の素晴らしさを文恵君という王が褒めた時のことです。

包丁が自分は技術に頼っているのではありませんと答えました。

油を売っていた翁に通じる話です。

その時の様子を描いた部分があります。

彼は牛の体に左手を軽く触れ、左肩をそっと寄せ掛けます。

その手の触れ方、肩の寄せ方、足の踏まえ方、膝の曲げ方に至るまで、まことに見事この上ありませんでした。

刀を動かし始めれば、骨と肉とがさくりと離れ、切り放たれた肉塊はばさりと地に落ちたのです。

さらに刀を進めればざくりざくりと音を立てて肉がほぐれていきました。

全てがリズミカルで、いにしえの舞楽である「桑林の舞」や「経首の会」を思わせるほどであったと言われています。

彼は19年間に数千頭の牛を料理したといいます。

しかし、刃はいつも研いだばかりのようでした。

牛の骨節の隙間に厚みのない刃を入れるのでゆとりがあるのです。

だから刃が痛みません。

彼は王に褒められても嬉しくはなかったのですね。

常に無心の境地で牛を解体しているのですと答えたという話です。

車輪を作る話もこれとよく似ています。

こうした技術は簡単に文字や言葉で説明できるようなものではありません。

限りなく奥深いものです。

熟練の技の尊さ、そしてその熟練の技の先にある人間の知識の及ばない高い境地を述べています。

今でも伝統工芸の世界では同じことが言えるのでしょう。

全てが長年の経験から習得されたことばかりです。

言葉では説明し尽くすことがは出来ない神業のようなものです。

宮大工の仕事などをみていると、木材だけで1000年も倒れずに残る五重塔を建立してしまうのです。

薬師寺の西塔は1000年後に東塔と同じ高さになるように設計されていると聞きました。

その技術にはただ目を見張ってしまいます。

木の性質も見抜かなければなりません。

カンナの刃を磨くだけに数年かかるというような、修行を積むのです。

これが文字で学ぶのではなく、ひたすら身体で覚えるということなのかもしれません。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

【名人伝・中島敦】狂気でも冗談でもない結末の言葉に真実が宿る
中島敦は『山月記』で有名な作家です。虎になった人間の話は必ず高校時代に習います、その小説家の作品に『名人伝』というのがあります。弓の名人になりたかった男が長い修行を経てついに名人になります。しかし弓の存在を既に忘れていました。
タイトルとURLをコピーしました