中上健次
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は46歳で亡くなった作家、中上健次について語らせてください。
名前を聞いたことがありますか。
殆どの人は御存知ないでしょうね。
彼は昭和21年、和歌山県新宮市に生まれました。
県立新宮高校を出た後、羽田空港の貨物輸送会社で航空貨物の積み出しをします。
中上健次を語る時の基本は、彼が紀州の生まれであるということです。
文学的軌跡の大半はここから始まっています。
この作家の周囲に知的匂いはほとんどありません。
あるとすれば文学同人誌「文芸首都」に加わっていたという事実だけです。
むしろ彼自身がそうしたものを遠ざけてきた感すらあるのです。
文学が知識人の産物になってしまってから随分と久しいものがあります。
しかし中上はそれを拒否しました。
彼に親しい世界は『説経節』の信徳丸がよろぼうて食を求めるその幽暗なのです。
あるいは『雨月物語』『宇津保物語』などの持つ不可思議な昏さです。
地を這う、血の赫さにおびえる土俗的な生きざまの中に、中上は自分の世界を見い出そうとしました。
しかし、それに気づくのはずっと後のことで、処女作以前の若書きの時代の作品『十八歳、海へ』に描かれたものとは大きく隔たっています。
彼の処女作は『十九歳の地図』です。
18、19歳の自分を投影しながら、たえずいらだっている知識階級以外の人間を描き出したのです。
『十九歳の地図』の主人公は新聞販売店に住みこんで予備校に通う青年です。
彼の眼に映るものは汚れきった都会の裏街と、そこに住む人々だけでした。
代表作『岬』
『鳩どもの家』ではほとんどフーテンに近い男の生活が描かれます。
社会的に無意味な高校生が主人公なのです。
ジャズのつまった喫茶店に入りびたって睡眠薬を飲んで遊ぶという日常が主題です。
その後、彼は突然土と血の鉱脈を探しあてました。
ここで初めて自分が紀州出身の人間であるという認識を強く持ち始めたのです。
熊野信仰につながる神話的世界を知ったのです。
自分の身体の中にその血が流れていることを感じたのでしょう。
これ以降、主な関心は急速に自らの生まれた僅かな場所に限定されていきます。
中上健次が本当の意味で作家になり始めたのはここからでした。
この時期の代表作は『岬』です。
紀州を舞台に作品は展開されていきます。
この小説で彼は第74回芥川賞を受賞しました。
読めばわかりますが、非常に哀しいストーリーです。
登場人物が多く出てきます。
そのほとんどは血縁関係のある人物です。
複雑に混ざり合った男女関係の中で生まれた人達ばかりです。
主人公はその複雑な血縁関係を恨みます。
しかし父親を憎む血の中には、父の血が確かに存在していたのです。
このモチーフはやがて彼のもっとも奥深いところに秘められ続け、名作『枯木灘』を生みます。
中上健次は学校では習わない作家の1人です。
なぜか。
そこに反道徳的な匂いがあるからかもしれません。
扱いたくても扱えないのです。
教師にも教えられないといった方がいいのでしょう。
血に潜む反逆の匂いがします。
なぜ紀州を書いたのか
彼はなぜ紀州を描こうとしたのでしょうか。
それも非常に限定された場所ばかりをです。
彼の随筆集『鳥のように獣のように』はその意味で興味深い作品といえます。
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紀州に生れて、紀州に育った。
しかも紀州の一等端っこ、川ひとつ渡ると他県に出る新宮という町で、である。
風土はそこからどんなに遠く離れたとしても、この身を縛る。
山々が重なる。
それも、中世の頃から延々とつづいたあの熊野詣の山である。
とび抜けて高い山はない。
だが山だらけである。不意に海がある。
やはり、これもあの補陀落渡海の海である。(中略)
さて紀州というその風土に生れた小説家としてのぼくは、敬語、丁寧語のない言葉を血肉に受け、人がいるのではなく、在る、在ってしまう世界を書こうとしているのだ、と言えば自己解説しすぎるだろうか。
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この文は中上健次の文学を解くカギだといってもいいでしょう。
『岬』で芥川賞受賞をした翌年、彼は『枯木灘』でその世界をさらに深化したものにしました。
領域を拡げたのです。
描かれたのは路地の奥深くで繰り広げられる一族の物語です。
『枯木灘』の結晶度は非常に高いです。
1つの母系家族をほぼ編年体で書いた『鳳仙花』に比べて、『枯木灘』は非常に難解な小説です。
ここには神話があり、作者の人間観、自然観などが満ちあふれているのです。
その神話的世界
舞台は新宮。
竹原秋幸を主人公とするこの一家は土木工事の請負いをしています。
母フサの連れ子として秋幸、義父繁蔵には息子の文昭がいます。
そして母フサが最初の夫との間に設けた長女芳子は名古屋の練糸工場に奉公して結婚。
二女美恵は新宮で土木請負いの男と結婚。
三女君子は中学を出て大阪のバーをやっているイトコの子守り。
長兄は秋幸が12歳の時、24歳で首をくくって自殺。
これらいずれもが秋幸とは母だけでつながっています。
秋幸の父は浜村龍三という荒くれ者です。
彼には他の女2人に生ませた子がいます。
1人はさと子で土地の売春婦、もう1人はヨシエが生んだ子です。
その他、正妻の子、秀雄。
オートバイを乗りまわすだけの異母弟です。
フサは4人の子を捨て、秋幸1人だけを連れて3人目の夫、繁蔵と再婚するのです。
これだけで『枯木灘』の世界が通常のものではないことがわかることでしょう。
秋幸は大きく言ってしまえば、中上健次の分身であるといってもいいです。
彼自身極貧の生活の中で血族の問題をこの作品と同じ形ではらんでいたのです。
この作品の底にあるのは土との交感、風景との一体感です。
そこでだけ秋幸は許されます。
自死した兄の年齢に近づく秋幸にとって死の匂いは親しいのです。
しかし働く時、つるはしを持つ時だけ彼は土になれます。
それが快楽なのです。
風景に同化し地にその音を響かせることで生の悦びを得ます。
彼の作品には「川」による浄化のイメージや、「太陽」による力のイメージが数多いです。
この他に『紀州木の国・根の国物語』といった一種のルポルタージュもあります。
この作品は創作ではないので趣は異なりますが、一読をお勧めします。
神話の中に自分の場所を探ろうとした苦しみの跡がよく見て取れます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。