【十八史略・文帝編】駐屯地に赴いた天子を将軍たちはどのように出迎えたのか

匈奴との戦い

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は史伝を読みましょう。

『十八史略』は、南宋の曾先之(そうせんし)によってまとめられた歴史書です。

三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約し、編年体で綴っています。

故事成語を知る上でも、大変便利な本です。

今回はその中で、軍律のあり方を示した文帝の考え方について触れます。

この時代、最大の難敵は匈奴でした。

匈奴は起源前3世紀末から5世紀間にわたって、蒙古地方を中心に反映した遊牧騎馬民族なのです。

先代の高祖(劉邦)も匈奴の攻撃には手を焼きました。

前漢200年間の最大の脅威だったのです。

彼らと戦うためには、財政の裏打ちが必須でした。

戦いは長引き、戦費は年々前漢の経済を逼迫させていったのです。

高祖のあとをついだ文帝は、外敵から自国を守るため、部下の将軍たちを各地に駐屯させました。

対匈奴防衛軍の司令官として、周亜夫(しゅうあふ)、劉礼(りゅうれい)、徐厲(じょれい)の3人を任命したのです。

その中で、周亜父は高祖(劉邦)に仕えた周渤(しゅうぼう)の子で後に宰相となった人です。

ここではそれぞれの将軍が、文帝の訪問に対してどのような態度をとったのかを比べてみましょう。

特に注目したいのは、周亜夫です。

文帝一行を迎えた時の厳正な対応ぶりが、ひときわ目を引きます。

他の2人と比べてみると、その違いがよくわかります。

その部分を読んでみます。

本文

匈奴、上郡・雲中に寇(あだ)す。

詔(みことのり)して将軍周亜夫(しゅうあふ)は細柳に屯(とん)し、劉礼(りゅうれい)は覇上(はじょう)に次し、徐厲(じょれい)は棘門(きょくもん)に次し、以って胡(こ)に備へしむ。

上(しょう)自ら軍を労し、覇上及び棘門の軍に至り、直ちに馳せて入(い)る。

大将以下、騎して送迎す。

已(すで)にして細柳に之(ゆ)く。

入るを得ず。

先駆曰く、天子且(まさ)に軍門に至らんとす、と。

都尉曰く、軍中には将軍の令を聞いて、天子の詔を聞かず、と。

上、乃(すなわ)ち使いをして節を持して、将軍亜夫に詔(みことのり)せしむ。

乃ち言を伝えて門を開かしむ。

門士、車騎に請うて曰く、将軍約す、軍中は駆馳(くち)するを得ず、と。

上、乃ち轡(ひ)を按(あん)じ、徐行して営に至り、礼を成して去る。

群臣皆驚く。

上曰く、嗟乎(ああ)此れ真の将軍なり。

向者(さき)の覇上・棘門の軍は児戯のみ、と。

現代語訳

(文帝の後の六年に)匈奴が上郡や雲中を侵しました。

文帝は詔を下して、将軍の周亜夫を細柳に駐屯させ、劉禮は覇上に、徐厲は棘門に宿営して匈奴に備えさせたのです。

文帝は自ら軍隊を労(ねぎら)うため覇上と棘門に赴きました。

馬車を走らせて門内に駆け入ると、大将以下が騎馬で送迎しました。

その後細柳に行った時のことです。

門に入ることが出来ませんでした。

先駆の者が「天子さまがお着きになった、開門せよ」と言うと、門を守る将校が言うには「軍中では将軍の命令を聞くのみで天子さまの詔とて聞くわけにはまいりませぬ」とのことでした。

帝は天子の使いの旗印を持たせて、周亜夫に詔を伝えさせました。

そして将軍の命によって門を開かせましたが、衛士が帝の警護の騎士に「軍中は車馬を走らせないと将軍に約束しております」と言ったのです。

帝の車は手綱を引きしめて徐行して将軍の軍営に至り、ねぎらいの挨拶をすませて引きあげました。

群臣は皆あきれましたが、帝はすっかり感服して、「これこそが真の将軍である。先の覇上や棘門の軍など、子どもの遊びみたいなものだ」と言ったということです。

組織の規律

この話のカギはどこにあるのでしょうか。

文帝がわざわざ前線を訪問しに来てくれたのです。

誰もが喜んで謁見をうけようとするのではないでしょうか。

事実、劉礼(りゅうれい)と徐厲(じょれい)の2人は陣の門をあけて、文帝を迎え入れました。

当然のように、文帝は細柳に駐屯している周亜夫のもとを訪ねました。

しかし衛兵は門を開こうしません。

重ねて、開門を要求しました。

しかし開けようとはしないのです。

その理由を尋ねると、軍隊では指揮系統はひとつしかないと主張しました。

将軍の命令以外は、いかなるものも受け入れることがないというのです。

確かに指揮系統がが完全に一本化していないと、戦力が分裂し、デマや誤報などで大混乱になることがあります。

周亜父はこの原則をきちんと守っていたのです。

天子の命令でも

天子が到着する旨を伝えても取り合ってはもらえませんでした。

結局、文帝が到着しても幕営に入れなかったのです。

文帝は、節と詔を持たせた使者を周亜夫へ遣わせました。

そこには最高の司令官である彼の意志が書き記してあったのです。

さすがに城門が開きました。

しかし城内へ入れたものの、文帝は馬車を走らせることもできず徐行をさせられたのです。

文帝に続く多くの群臣たちもこの扱いにはさすがに驚きました。

やがて周亜夫の待つ営倉に着くと、亜父は一礼して言いました。

鎧を着た軍兵は拝礼を行なうことはありません。

軍礼をもってまみえるのが礼儀です。

そこで文帝は自ら軍礼をもってむくいることとしました。

軍礼というのは平時と違い、軍中におけるときだけの式礼です。

いわゆる常礼とは違い凶礼と呼ばれるものを用いました。

そこで文帝自ら「皇帝はつつしんで将軍をねぎらう」と周将軍に申せと部下に命じました。

そして軍礼を終えると文帝は去っていったのです。

群臣はみな驚きあきれたのです。

しかし文帝だけは周亜夫を絶賛しました。

その時の台詞が次のようなものです。

「あれが真の将軍である。徐厲や劉礼の軍は子供の遊びに等しいのだ。」と

敵に襲われれば将軍も虜になることはあるかもしれない。

しかし今の様子をみていればわかる。

亜父の軍を破ることはできないだろう、としきりに賞賛したのです。

その後1カ月ほどで匈奴の侵攻が止み、3軍は解散しました。

周亜父は中尉に任じられたのです。

その1年後、文帝が亡くなりました。

息子の景帝に、言い残した言葉は次の通りです。

「動乱があったならば周亜父に軍を任せよ。彼こそが真の将軍である。」と。

周亜夫は父周勃と同じく国軍を託さるようになりました。

やがて景帝が立つと、周亜父は車騎将軍に任ぜられたのです。

軍規を守るということの意味が、実によくわかる話ですね。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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