【才と徳・資治通鑑】聖人・君子・小人・愚人を見分けて配置するためのヒント

才と徳

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は中国北宋代の政治家、歴史家である司馬光(1019-1086)が1084年に著した『資治通鑑』(しじつがん)を読みます。

この本は実際の政治を行う上での参考にすべき書として作られました。

帝王学ための本といっても過言ではありません。

正史に記載されていない、野史や家伝などの豊富な資料に基づいてまとめられています。

既に散逸した史料が多いため、貴重な書物なのです。

今回の「才と徳」の問題は常に問題となる論点です。

「才」とはわかりやすくいえば、頭の良さです。

知識全般にわたる力とでもいえばいいでしょう。

「知力」と考えてください。

一方の「才」は心が安定して穏やかなことです。

思想がきちんと整っている様子をいいます。

今回は、上にたつ人間が、どのように人を判断し、自分の配下として取り立てればいいのかについて書かれたところを読みます。

これはビジネスの分野だけでなく、人間がつねにかかえる重要な問題ですね。

適材適所に人を配置することくらい、難しい判断はありません。

「知に働けば角がたつ、情にさおさせば流される」と昔から言われています。

知的に優秀であることと、人徳を備えていることは必ずしもパラレルではないのです。

ここでは人間を4つのパターンに峻別し、その違いについて考えていこうと思います。

本文

夫(そ)れ才は徳と異なるに、而して世俗之を能く弁ずる莫(な)く、通じて之を賢と謂ふ。

此れ其の人を失ふ所以(ゆえん)なり。

夫れ聡察強毅(そうさつきょうき)を之れ才と謂ひ、正直中和を之れ徳と謂ふ。

才なる者は徳の資なり。

徳なる者は才の師なり。

雲夢(うんぼう)の竹は天下の勁(けい)なり。

然り而して矯揉(きょうじゅう)せず、羽括(うかつ)せずんば、則ち以て堅きに入る能はず。

棠谿(とうけい)の金は、天下の利なり。

然り而して鎔範(ようはん)せず、砥礪(しれい)せずんば、以て強きを撃つ能はず。

是の故に才徳全く尽くせる、之を聖人と謂ひ、才徳兼ね亡(うしな)へる、之を愚人と謂ふ。

徳の才に勝る、之を君子と謂ひ、才の徳に勝る、之を小人と謂ふ。

凡(およ)そ人を取るの術は、苟(いや)しくも聖人君子を得て之と与(とも)にせずんば、其の小人を得んよりは愚人を得るに若(し)かず。

何となれば則ち君子は才を挟みて以て善を為し、小人は才を挟みて以て悪を為す。

才を挟みて以て善を為す者は、善至らざる無く、才を挟みて以て悪を為す者は、悪も亦(ま)た至らざる無し。

愚人は不善を為さんと欲すると雖(いえど)も、智周(あまね)き能はず、力の勝る能はず、譬(たと)ふならば乳狗(にゅうこう)の人を搏つが如し。

人得て之を制す。

小人は智以て其の姦を遂ぐるに足り、勇以て其の暴を決するに足る。

是れ虎にして翼ある者なり。

其の害を為すこと、豈(あ)に多からざらんや。

現代語訳

そもそも才は徳とは別のものであるのに、世間一般ではこれを区別できず、両者を一緒にして「賢」と呼んでいます。

これが人を見誤るもとなのです。

そもそも頭が切れて意志の強いことが「才」であり、まっすぐに調和のとれているのが「徳」なのです。

いわば、才は徳の資材であり、徳は才の指揮者です。

たとえていえば、雲夢産の竹は天下きっての堅く強いものです。

しかしこれに矢羽を取り付けなければ、硬い鎧に射こむことはできません。

棠谿産の鉄は鋭利なものです。

しかし鋳型でとかさず、砥石で研がなければ、強固なものを撃つことはできません。

そういうわけで、才徳を完全に身につけた人を聖人といい、才徳をともに欠いている人を愚人といいます。

徳が才を上回る人を君子といい、才が徳を上回る人を小人といいます。

人を扱う方法として、もしも聖人や君子を採用してもうまくいかないときは、小人を採用するより、愚人をとるほうがましなのです。

君子はその才を頼みとして善をなしますが、小人はその才を頼みとして愚をなすからです。

才を頼みとして、悪をなすとき、その悪をとことん追求してしまうものなのです。

ところで愚人は善くないことをしようとしても、知恵は回りかねるし、力量からして持ちこたえられません。

それはちょうど子持ちの母犬が人に抵抗するようなもので、人はこれを押さえつけることができます。

ところが小人はその不正な行為をやり遂げるのに十分な知恵があり、その無謀な行為を決行するのに十分な勇気を持っています。

これは虎に翼が生えたようなものです。

その及ぼす災害はなんと多大なものでしょうか。

リーダーになるべき人

この人間観は今日でもそのまま通用しますね。

経営者たちが、この本を読む理由がわかります。

会社経営の極意は人事配置につきます。

どのような人間をどこに置くかで、組織体の将来が決まってしまうのです。

ここで司馬光の論点を整理します。

才も徳もある人は「聖人」

徳が才に勝る人は「君子」

才が徳に勝る人は「小人」

才も徳もない人は「愚人」です。

リーダーに立つなら、小人より愚人の方がよい、と彼は主張しています。

司馬光が『資治通鑑』に書いたことはやや、極論にすぎるかもしれません。

ここまで単純に人を峻別することが可能なのかどうか。

しかし基本的な視点は誤っていないのではないでしょうか。

論点は実にわかりやすいです。

「才」と「徳」とを区別しないことが、人の使い方を誤る原因だと司馬は言っています。

頭がよくて、意思が強く屈しないのが「才」です。

正しくまっすぐであり、かたよりがないのが「徳」です。

「才」は「徳」の素材であり、「徳」は「才」を導くものだというのです。

図式化してみましょう。

① 才も徳もある人を聖人という。(才○ 徳○)
② 才も徳もない人を愚人という。(才× 徳×)
③ 徳が才に勝る人を君子という(才<徳)
④ 才が徳に勝る人を小人という(才>徳)

ここで大切なポイントは聖人、君子を得ること出来ないときは、小人よりは、むしろ愚人を得た方がましだというのです。

なぜならば君子は徳の導きで才を働かせて善をなすが、小人は徳がないから才を働かせて悪を為すからであるというのです。

考えさせる内容ですね。

徳のない中途半端に頭の回る人間ほど、厄介なものはないと言い切っているのです。

愚人は悪いことをしようとしても、知恵も力も足りません。

つまり、たいして悪いことも出来ないのです。

最後の文章も重いですね。

小人は悪事をやり遂げるに勇気や知恵をもっています。

虎に羽が生えたようなものだというのです。

そういう小人が引き起こす悪は、多くないことがあろうかと訊ねていますね。

世間的にみても、この類の人間が起こす事件が圧倒的に多いのです。

小利口な人間の集団ほど、手のつけにくい面倒な存在はありません。

結局、人を使うときの方法は、第1に聖人と君子を探すことです。

それがかなわないときは、小人を用いるよりむしろ愚人を用いよということなのです。

徳と才の優先順位を間違えると、とんでもない失態を演じることになります。

あなたはこの考え方に賛成できますか。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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