【戯曲の中の対話】演劇で使われる言葉は情報の塊りであるという真実

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戯曲の中の対話

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は演劇の言葉というテーマで考えてみます。

三省堂版の教科書「文学国語」に戯曲が一篇所収されていました。

永井愛の『書く女』という樋口一葉をモデルにした作品です。

彼女が20歳の春から世を去る25歳の晩秋までの様子を描いたものです。

もちろん、掲載されているのはその一部です。

読み始めたらあっという間に、その世界に没入してしまいました。

小説とも違う、戯曲の風景がそこには現出していたのです。

さっそく而立書房から上梓されている全編を読み始めました。

その前段に、劇作家の井上ひさしと平田オリザの対談もありました。

両者とも言葉に対する関心は、非常に強い演劇人です。

そこで語られる「戯曲の中の言葉」についての対談は興味深いものだったのです。

「文学国語」は今年度から新しく始まったカリキュラムです。

従来、演劇をここまで取り上げる教科書はありませんでした。

それだけに大変面白い企画だと思います。

ぼく自身、長い間演劇部の顧問をしてきました。

芝居もかなり見ました。

井上ひさしの戯曲だけを上演する「こまつ座」の稽古場へ行ったこともあります。

紀伊国屋ホールでのゲネプロにも出かけました。

平田オリザの芝居も何本か見ています。

彼の持つ演劇に対する感覚も参考にさせてもらいました。

いわゆる「静かな演劇」と呼ばれているものです。

聞いたことがあるでしょうか。

同時に複数の人間が台詞を言うという構造の芝居は、それまでの演劇にはありませんでした。

平田の主宰する「青年団」が意図的に始めたものの1つです。

新しい演劇観に立脚した芝居を多く見られたことは、よかったと今も考えています。

本文

教科書の中から、気になった箇所を抜粋してみます。

戯曲の言葉には無駄がないという彼らの対話の真意を理解してください。

ここからは、井上ひさしの発言です。 

———————————–

劇言語としての「対話」と日常会話との決定的な違いを挙げるとすると、ひとつは「対話」といっても、劇言語の場合は、何げないところにものすごい情報を詰めてあることですね。

平田さんはよく記号を書きますけど、たとえば「天気がいいわね」「そう……」という会話にも、すべて、全部情報が詰まっていて、一切すべてが意味をもっているわけです。

無意味なことを表現するときにも、その無意味という意味が詰まっていますから、ひと言として書き流していない。

一切すべて、作家による非常に厳密に計算をされた意味と情報をもっている。

もうひとつは、戯曲の中の会話は、それ自体が意味をもっとているんですが、そのせりふが次のせりふを必ず導き出すという役目をもっていることですね。

芝居を書いているとき、ここに異常なほど力点がかかる。

次に平田の発言です。

———————————–

必ず演説のようなせりふのあとには、何か人間的な会話みたいなものを入れていかないと、バランスがとれないでしょう。

ぼくはよく戯曲の講座なんかで言うのは、古今東西名作として残っているのは、演説からひとり言まで、人間が話す言葉が、だいたいバランスよく全部入っている。

シェイクスピアというのはまさにその典型です。

台詞と科白

この2つの漢字はなんと読むでしょうか。

台詞と科白です。

正解はどちらも「せりふ」なのです。

ではどう違うのか。

よくわかりませんね。

実際は曖昧に使っているケースが大半です。

しかし厳密には「台詞」は言葉だけのものを言い、「科白」はそれに仕草が加わったものをいうのです。

劇作家、別役実の『演劇教室』の中にはユニークな「台所で台詞を割る」というエチュードが載っています。

少しだけ見てみましょう。

男のせりふです。

ですからね……(台所にいる妻に)おい、吉田君にお茶出して……。

私は言ってやったんですよ。そのこと自体は……。

(台所にいる妻に)ヨーカンがどこかにあったろう……。

それですむかもしれませんけど、必ず後で問題に。

(台所にいる妻に)えっ、ない……。

なりますって……。

ないはずないじゃないか……。

だって、そうでしょう……。

ちょっと待ってください……。(去る)

目の前にいる吉田君に向かって言うせりふと「台所にいる妻」に向かって言うせりふが交互になっています。

同時に意識を向けながら、距離感の違いなどを出さなくてはなりません。

話し方の丁寧さなども、客人と妻とでは明らかにかえる必要があります。

さらに身体の様子で、足腰の弱っている印象や、性格を出します。

この場合は完全に一人芸なので、むしろ落語を演ずることに近いのかもしれませんね。

ちよっと試みに演じてみてください。

非常に難しいことがよくわかるはずです。

身体性が重要

演劇の難しさは身体性にあるともいえます。

演出家、鈴木忠志はスズキメソッドを開発しました。

そのルーツを能に求めたのです。

摺り足などの歩き方を演劇の中に導入しようとしました。

そのために身体の動き方の基本部分ともいえる腰に重点を置きました。

足の裏の感覚も大切にしたのです。

舞台の板の上を摺り足で歩いた後は、音をたてて歩く稽古などもしました。

演劇はそこで演じられる表現が日常のようにみえながら、その背後に緊張した非日常が隠れているという事実が大切なのです。

前の台詞が次の台詞をごく自然に導き出す。

そこで演じられることの中にある緊張感に満ちたリアリティが、より真実に近づくことが肝要です。

言葉の持つ張り詰めた時間を味わうために、人は1つの場所に集まるのかもしれません。

演じられる空間は基本的にどこでもよいのです。

水上であれ、空中であれ、あるいは大空間の劇場でも、きわめて小さな舞台でも。

そこに生きている真実があれば、人は集うのでしょう。

ぼくはそういう意味で、幸せな時代を過ごしてきたように思います。

神社にも、アトリエにも、街中にも出かけました。

そこで見たものは、演劇だけが持っている時空間の響きと強さです。

言葉の持つ磁力とでもいったらいいのかもしれません。

完全に酔いしれて家路につく時の、幸福感であったような気がします。

「文学国語」だけでなく、戯曲を扱う時間は、もっとあってもいいはずです。

しかし「論理国語」優勢のカリキュラムが現実の世界です。

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夢をみているゆとりはなくなりつつあるような気もしています。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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