道成寺の鐘
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は能の代表作「道成寺」について考えてみます。
たくさんの能をみてきた中で、特に印象の強い作品ですね。
何度見たでしょうか。
とにかく激しいのです。
それも最初からではありません。
はじめは実に静かです。
それは主人公が身体の内側に自分の感情を押しこめて、自制していただけのことです。
次第に激情がおさえられなくなってくると、ついに最後は蛇体に変じていくのです。
人間というものは厄介な生き物だとしみじみ感じます。
最後、法力で折伏され、蛇体は消えます。
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真っすぐな祈りに勝つことはできないのです。
そのコントラストもものすごいですね。
能楽堂を訪ねたことのある人は正面から舞台の上を見てみれば、そこに大きな滑車がついているのに気づきます。
これが「道成寺」で使う鐘を吊るすためのものなのです。
最初に鐘を運ぶのは狂言方数名です。
前後に分かれて舞台中央まで運びます。
そのうちの2人が綱を解き、長い竹の棒を操って屋根の滑車に通します。
その後からシテ方鐘後見が出てきます。
これがとても大切な役割なのです。
鐘の重さは70キロから100キロ近くに及びます。
節目となる曲
落語でもそうですが、いわゆるトリネタというものがあります。
これは最後に出る演者(トリ)が、口演するのにふさわしい演目のことをさします。
能の場合も全く事情は似ています。
最も難しいのは老女が出てくる演目だと言われています。
なぜ難しいのでしょうか。
世阿弥は『風姿花伝』の中で「そもそも老人の姿は見栄えのするものではないから」と言っています。
「それでも美しく見せなければならない」のです。
「卒塔婆小町」とか「関寺小町」「檜垣」などをいかに演ずるかで、芸の質がわかると言われています。
そこまで辿り着くために修業を日々重ねなければなりません。
そのための節目となる曲がいくつもあるのです。
つまり落語家でいう真打ちになるための演目です。
そのための1曲が、能の世界では「道成寺」なのです。
何が難しいのか。
1時間に及ぶ舞台で、緊張感を切らしてはいけません。
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とくによく言われるのが「乱拍子」です。
シテの足さばきと小鼓の気迫がぶつかり合います。
見ているとほとんど動きません。
その足元のわずかな揺れが、心の内側を表現するのです。
乱拍子は小鼓の気合に合わせてシテが足を運び、通常は舞台を左回りに三角形に一周します。
シテは鼓の音に合わせて爪先や踵を上げ下げします。
濃密な時間です。
見ているだけで息苦しいですね。
体力と集中力がなければ、この場面を先に進めるのは無理です。
安珍・清姫伝説
この作品は歌舞伎にもなっていますね。
こちらの方が見ている人の数は圧倒的に多いと思います。
「京鹿子娘道成寺」というのが正式な名称です。
元々は能の方が先ですが、坂東玉三郎はみごとな踊りで、豪華絢爛とした舞台をみせてくれますね。
元々は紀州道成寺に伝わる、安珍と清姫の伝説に取材した作品なのです。
最初、白拍子が紀州道成寺の鐘供養の場に訪れます。
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元来、女人禁制の供養の場でした。
白拍子はそこで舞を舞い歌を歌います。
だんだんと気持ちが激高し、ついに釣り鐘の中に飛び込んでしまいます。
すると鐘は音を立てて落ちます。
祈祷によって持ち上がった鐘の中から現れたのは、白拍子が蛇体に変身した姿でした。
これだけでも、異様な展開です。
ここからは鬼となった蛇体が僧侶たちと対決するシーンになります。
前半が大変静かで穏やかなだけに、後半の場面との落差がスペクタクルに満ちています。
鐘の中に入ったシテは、ここで衣装を1人で着替えなければなりません。
白拍子の衣装から蛇体へと変身するのです。
それだけでも大きくて難しい作品だということが、よくわかるでしょう。
観客は理屈抜きに楽しめます。
道成寺という演目の人気は、ごく自然なものと言えますね。
女の執心
道成寺の話は昔からあったもののようです。
『今昔物語集』などの仏教説話にも残っています。
誰かを愛し、その果てに捨てられる女の執心は永遠です。
相手の姿が消えた時、その男を隠した憎いものは何か。
それがこの場合は「鐘」だったのです。
鐘の周囲に大蛇がまとわりつき、離れようとしないという構図は、人間の執着の強さを連想させます。
しかし結果はだいたい想像がつきます。
僧侶の法力で、退散させられるのです。
この場面の迫力はすごいです。
しかしどこか悲しさも感じさせます。
詞章をご紹介しましょう。
これは最後に行者が手に数珠を持って、祈りながら蛇体にせまる時の祈りの言葉です。
何度も繰り返して聞いているうちに、この世のものでない気分を感じます。
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祈るということの意味を実感するのです。
謹請東方青龍清浄。
謹請西方白体白龍
謹請中央黄体黄龍
一大三千大千世界
その後の様子です。
恒沙の龍王哀愍納受。
哀愍じきんのみぎんなればいづくに大蛇のあるべきぞと。
祈り祈られかつぱと転ぶが。
又起き上つて忽ちに。
鐘に向つてつく息は。
猛火となつてその身をやく。
日高の川浪深淵に飛んでぞ入りにける。
望足りぬと験者達はわが本坊にぞ帰りける。
我が本坊にぞ帰りける。
動画にシテ方、塩津圭介氏が「道成寺」に挑んだ時のドキュメンタリーがありました。
これを見ていただければ、かなり実感が増すと思います。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。