【貧困】格差社会の中で自己責任論は通用するのか【溜めの思想】

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貧困

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は貧困と自己責任論との関係について考えます。

この問題は非常に深刻です。

ここ20年くらいの間に、一気に自己責任という言葉が蔓延しました。

簡単にいえば、貧しいのは本人が悪いのだという論点です。

努力しなかった本人が悪いという言い方もよく耳にします。

特に高学歴・高収入の人ほどこう考える傾向が強いと聞きます。

しかし全てをこの論理で貫き通すことができるのかどうか。

本格的な貧困者支援事業を行っている人たちの視点からみていきましょう。

社会活動家として名前を知られている湯浅誠氏の文章を紹介します。

高校の国語の教材して扱われているものです。

ここから貧困の裏側にある問題点を探ってみましょう。

小論文の課題として取り扱うことも十分に可能です。

12019 / Pixabay

設問の形式を工夫すれば、ただちに入試問題になります。

実際の問題にする場合は次のような設問が考えられます。

問1 あなたはこの文章の中で筆者が述べている、「溜め」という言葉をどのように理解しますか。

「自己責任」という表現とあわせて必ず文中で使用し、800字以内にまとめなさい。

問2 なぜ貧しい人たちは自己責任論に陥ってしまいがちなのか。

その理由を考え、800字以内でそこから抜け出すための方法について考察しなさい。

2つの具体的な問題を提示しました。

実際に解答を試みてください。

とにかく書いてみることが大切です。

そこから全てが始まるのです。

課題文

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センという学者がいる。

彼は、新しい貧困論を生み出したことで知られている。

彼の貧困論は、選択できる自由の問題と深く関わっている。

センは「貧困はたんに所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態と見られなければならない」と主張する。(中略)

私自身は、ホームレス状態にある人たちや生活困窮状態にある人たちの相談を受け、一緒に活動する経験の中で、センの「潜在能力」に相当する概念を「溜め」という言葉で語ってきた。

「溜め」とは溜池の「溜め」である。

大きな溜池を持っている地域は、多少雨が少なくても慌てることはない。

その水は田畑を潤し、作物を育てることができる。

逆に溜池が小さければ、少々日照りが続くだけで田畑が干上がり、深刻なダメージを受ける。(中略)

「溜め」の機能は、さまざまなものに備わっている。

たとえばお金だ。

じゅうぶんなお金(貯金)を持っている人は、たとえ失業しても、その日から食べるに困ることはない。

当面の間そのお金を使って生活できるし、同時に求職活動費用ともなる。

落ち着いて、積極的に次の仕事を探すことができる。

このとき、貯金は「溜め」の機能を持っていると言える。

しかし、わざわざ抽象的な概念を使うのは、それが金銭に限定されないからだ。

有形無形の様々なものが、「溜め」の機能を有している。

頼れる家族、親族、友人がいるというのは、人間関係の「溜め」である。

また、自分に自信がある、何かをできると思える、自分を大切にできる、というのは精神的な「溜め」である。(中略)

逆に言えば貧困とはこのようなもろもろの「溜め」が総合的に失われ、奪われている状態である。

金銭的な「溜め」を持たない人は、同じ失業というトラブルに見舞われた場合でも、深刻度が全然違ってくる。

ただちに生活に窮し、食べるものに事欠くために、すぐに働くところを見つけなければならない。

職種や雇用条件を選んでいる暇はない。

以上のように貧困状態を理解すると、それがいかに自己責任論と相容れないものであるかがわかるだろう。

自己責任論とは「他の選択肢を等しく選べたはず」という前提で成り立つ議論である。

他方、貧困とは「他の選択肢を等しくは選べない」、その意味で基本的な潜在能力を欠如させた状態、あるいは総合的に「溜め」を奪われ失った状態である。

よって両者は相容れない。

光と影

自己責任論には表と裏、プラスとマイナスのふたつの側面があります。

「自分が恵まれているのは自分のおかげだ」というのと「自分が努力し、能力があったからここまでなったのだ」という側面です。

この裏側にあるのが「自分が貧乏なのは自分のせいだ」となります。

近年、日本の経済が低迷し、企業はより安い労働力を求めるようになりました。

非正規などといった雇用の不安を抱え、貧困層がうまれることになったのです。

まさに光と影の関係です。

現在勝ち組と呼ばれている人たちは勉強に励み、その結果高い学歴を得て、報酬の高い仕事につけた人たちです。

彼らは「自分の地位や財産は自分で築いた」と考えています。

当然、この論理を貧しい人たちに当て嵌めます。

するとどうなるでしょう。

彼らはきちんと勉強ができず、その結果として高い学歴を得ることができませんでした。

geralt / Pixabay

当然「貧しいのは本人の責任だ」という論点に落ち着きます。

それと同時に現在貧しい暮らしをしている人はどうでしょう。

やはり「自分の能力が低い」「十分な努力をしてこなかった」と考えがちです。

最初はそんなことを思わなくても、次第に後ろ向きになり、境遇を受け入れることになってしまうのです。

彼らは賛成をしてその通りだと諸手をあげているワケではありません。

しぶしぶ、受け入れていくというのが現状なのです。

溜めの思想

最近、よくいわれることに子どもの貧困があります。

この問題は自己責任論では片づけられません。

なぜ「子どもの」という言葉が生まれたのか。

それまでは「貧困」がほとんど自己責任という言葉の中で解釈されてきました。

つまり真面目に勉強しなかったからとか、能力がなかったからで一括りにされたきたのです。

しかし「子どもの貧困」というと、自己責任論から少し切り離して議論することができます。

なぜか。

大人の場合は彼らがそうしてきたという過去を引きずっているように見えるからです。

しかし子供の貧困は生まれる家庭を選べないという当たり前の構図の中にあります。

geralt / Pixabay

つまり「溜め」がない状態が最初からはっきりとあらわれているのです。

金銭だけでなく、人脈もありません。

彼らを後ろから支える機能をもった人たちがいないのです。

頼れる家族、親族、さらには本人の自信や能力も未知数のままです。

自己責任論では語り切れないという共通認識があるからこそ、子供食堂などの活動が目に見えて広がっているのです。

給食のない夏休みを過ぎると、目にみえて痩せてしまう児童の様子なども、ニュースで取り上げられたりします。

今後、新型コロナの影響で突然仕事がなくなった人や、貧困に陥った家庭の子供に対しても自己責任論を負わせることになるのかどうか。

今、1つの分水嶺に差しかかっているのは間違いありません。

「溜め」の存在がどうしても必要であるという認識を誰もが持たなくてはならないところまできています。

行政が先頭にたつのはもちろんのこと、NPOなどの活動も必要です。

さらには個人の意識の転換も喫緊の問題でしょう。

誰もが下層に落ちる危険性を孕んだ世の中であるという認識が、必要なのです。

ここに示した内容をいくつか取り上げ、自分の言葉でまとめていくだけで、800字くらいにはすぐなってしまいます。

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ただし自分の実感、経験などを大切にし、それを表現してください。

一般論だけでは高い評価を得るのは難しいです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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