騒音の限界
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は騒音の問題を考えましょう。
広島大学総合科学部に出題された小論文の過去問です。
内容的には文化論における公共性のテーマの範疇に入るのでしょうか。
音の問題は個人の感受性の問題もあり、どこまでがノイズなのかという線引きが非常に難しいです。
さらにいえば、文化の差もありますね。
欧米では電車内のアナウンスは全くないのを御存知ですか。
駅の名前すらいいません。
ただドアが開いて閉まる動作の繰り返しだけです。
乗り換えがどのようになっていようと、それは全て個人の問題なのです。
実に徹底しています。
日本ではどうでしょうか。
反対にやたらと細かいですね。
駅の名前、乗り降りの案内から注意に至るまで、うるさいくらいです。
しかし非常に親切でありがたいという人もいます。
夕方の防災放送などもそうですね。
「夕焼け小焼け」の曲にのせて、はやく家に帰りましょうと連呼します。
最近では振り込め詐欺の電話がかかってきているから注意をしなさい、などという呼びかけもあります。
かつてマレーシアへ行った時、朝早くから町にコーランの大音響が響いた時には驚きました。
宗教上の問題はまた別格なのでしょうか。
いずれにしてもどこまでがノイズなのかというのは複雑な背景を持っています。
課題文の1部を読んでみましょう。
筆者は哲学者の中島義道氏です。
課題文
まずここで強調しておきたいことは あらゆる(と私には思われる)学問的理論が この音の問題に関しては無力だということである。
私が定義している問題は壮大な理論のちょうど死角に位置しており、あらゆる理論はここに入り込むとブラックホールに迷い込んだように不思議なほどその効力を失う。(中略)
例えば、「他人に迷惑をかけてはならないという」原理は、私が定義した問いにわずかでも答えてはくれない。
これは、共同体における個々人が求める価値観がほぼ同一である場合のみ有効だからであり、それが揺らぐところでは急速に力を失う。
いや、マジョリティの権力行使を正当化する危険な思想になりうるのである。
こういうことである。
暴走族は確かにほとんどの人に迷惑をかけている。
なぜなら、ほとんどの人が深夜の数時間に睡眠を取りたいという欲求を持つからである。
そして、その音を彼ら以外の誰も好んでいないからである。
したがって、深夜の国道を飛ばし、人々の安眠を妨げる彼らの行為は「悪い」行為である。
だが防災行政無線となると、もうこうした単純な判定を下せなくなる。
これはある人々が望み、ある人々が望まない音だからであり、反対派にすれば賛成派は行政と結託して自分達に迷惑をかけているが、賛成派にすれば反対派の主張は防災行政無線を必要としている自分たちに迷惑をかけている。(中略)
エスカレーターの注意放送は、私には甚だしい苦痛を与えるから、疑いなく私に迷惑をかけている。
しかし大多数の利用者には苦痛を与えず、むしろ事故防止のために賛成している人が多いのだから、これをやめさせることは彼らに迷惑をかけることになる。
商店街のスピーカー放送を激減させれば、そこに賑わいを期待している大多数の人々に迷惑をかけることになり、車内放送を大削減させれば、それを望んでいる大多数の人々に迷惑をかけることになる。
こうして、感受性の少数派が自分たちの感受性に基づいて何ごとかを主張すると、多数派はそれを「迷惑だ」と言って切り捨てるのである。
ここに、平均的感受性を持つ者の凄まじい鈍感かつ傲慢さが潜んでいるが、彼らは全くそれに気づいていない。
設問
問は次のようなものです。
現代社会における「公共性」のあり方について、課題文を参考にしながら、あなたの考えを800~1000字以内で論じなさい。
ポイントはどこにあるのでしょうか。
筆者は明らかに日本的な「公共性」の在り方を批判しています。
音に対する感受性において、少数者の主張をどう扱えばいいのかというところがキーワードでしょう。
「他人に迷惑をかける」という一見単純にみえることが、実は結構複雑なのです。
誰もが持っているコモンセンスに近いものだという認識には無理があるでしょう。
それを実際の場面にあてはめてみようとすると、多数派と少数派では全く意見が異なってしまうのです。
ここにこの問題の厄介な一面がありますね。
自分の主張は誰もが支持するはずだと思い込んでいてはいけません。
そこに意見のズレが出てきます。
となると、「公共性」とはどのようなものであるべきなのかというのが最も大切です。
YesかNoかで分けるとすれば、どこがその分岐点になるのか。
それだけが正確にみえていれば、高い評価をされるはずです。
筆者への賛否
最初に賛成の場合を考えます。
基本は「他人に迷惑をかけてはならない」という意識には危険性が宿っていると指摘することから書き出せばいいのです。
多数派の価値観だけを尊重していく態度が、結局は少数派の抑圧につながるということを示します。
さまざまな価値観がそこには存在するというあたりまえのことをもう1度、じっくりと捉えなおす必要があると考えるべきでしょう。
そうしなければ、常に多数者の意見ばかりが通る社会の構造になってしまいます。
これは民主主義の根幹にかかわります。
他人に迷惑をかけるということの内容を、より精査すべきという方向にもっていけば、筆者の論点に対して、賛成したことになるでしょう。
それでは反対の場合はどうなるのか。
簡単に言えば、筆者の論点はうけいれられるものなのかということです。
公共の場において、少数者の意見ばかりを聞いていたら、規範として機能しなくなってしまいます。
ある程度の人々が納得できる範囲で、互いを尊重しあう態度がなければ、社会生活は営めないのではないかという論点を提出します。
公共の場の秩序を維持するためには、ある程度の我慢も必要だと考えるとすればいいのです。
しかしあまりにここを強調しすぎると、多数派の権力の横暴ともとらえかねない状況になります。
最後はこの両者の接点をどこにおけば、互いの「公共性」が損なわれずに進むのかという論点に落ち着くでしょう。
ムラ社会型と言われている日本人の文化が、顔をのぞかせる瞬間なのです。
一斉に同じ方向を向きやすい社会構造であるからこそ、価値観の強要だけは避けなくてはならないといったような注釈を入れながら、文をまとめていくしかないでしょうね。
自分の経験や、他人からの迷惑といったことの具体例などもあれば、それを入れた方がいいです。
特に1000字くらいになると、一般論だけでは文章がダレてしまいます。
個人の自由をなるべく制限しない形で、両者が歩み寄れる位置を探す努力をすべきだといったまとめ方が1番現実的かもしれません。
ここで日本人論をうまく入れられれば、かなりの高評価になるのではないでしょうか。
少し勉強をしておいた方がいいです。
基本的な本だけは読んでおいてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。