論理性とリテラシー
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
40年間、国語をずっと教えてきました。
文学が好きだったからです。
小説や詩を読んでいると、心が洗われました。
自分がどう生きていけばいいのかを、いつも文字の中に探していたような気がします。
たくさんの人を人生をありのままに追体験する。
それだけで随分、心慰められましたね。
しかしAI時代を迎えて、国語教育は大きな曲がり角にきています。
これからどの方向に進んでいくのか、予断を許しません。
高校のカリキュラムもこの4月から大きく変わります。
とくに新1年生は全く今までと違うフェーズに突入したといっていいでしょう。
教科も教科書も大きく変貌を遂げました。
来年の4月になると、いよいよ今までみたこともない教科に突入します。
それが「論理国語」と「文学国語」という授業です。
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ともに4単位です。
週に4時間やらなくてはならないということになっています。
もちろん、この他に古文、漢文などもありますから、この2つの授業を8時間も実施することはできません。
そこでどちらかを選択するということになります。
あなたが先生だったら、どちらを高校2年の授業に配置しますか。
感受性を豊かにさせる文学的素材を前面に出すのか。
それとも論文や評論などを主軸にした論理的な文章をクローズアップするのか。
どの学校でも相当に悩んだことと思います。
新カリキュラム始まる
国語科の教員は基本的に文学の好きな人が多いのです。
本を読みながら、自分の人生を豊かにしたいと願ったのでしょう。
その結果、国語科の教員に辿り着いたと考えられます。
その前に立ちふさがったのが、今回の指導要領改訂です。
基本はAI時代のリテラシーをどう育てるかにつきます。
グローバル時代に世界へ向けて発信できる若者を育てるという目標です。
今までは文学を通して生徒の語彙力は増え、書くこと・読むことの能力は高まると考えてきました。
登場人物に共感したり批判したりすることで、人間社会との関わりを考えたり、情緒を育てると信じていたのです。
しかしPISAの成績で、日本の15歳の国語読解能力が低くなっているという指摘が出て来た頃から、流れがかわってきました。
PISAとは3年ごとに実施される、国際的な学習到達度調査のことです。
15歳を対象に読解力・数学的リテラシー・科学的リテラシーの3分野を測定するのです。
とくに日本人の青年たちに足りないのは、論理的な思考力だということになりました。
そこから一気に流れが文学から論理性へとなだれをうったのです。
国語の教師はどちらかといえば、感性に訴える授業の方が好きです。
得意といった方がいいかもしれません。
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しかしそれだけでは通用しない時代がやってきました。
これが現実です。
『論理国語』の中には評論ももちろんありますが、それ以外に契約書などといったごく日常的な文書の理解なども入ります。
教師の最も不得意とする部分です。
現場で授業をしていて、嬉しいのは生徒が達成感を感じているとわかった時なのです。
主人公の生き方にどう共感し、反発したのか。
それを目の当たりにする時です。
作品自体に魅力がそなわっていれば、当然、生徒の反応はさまざまに出てきます。
そのバリエーションが理解を深めていくことの支えになるワケです。
定番が消える
中学校でいえば、太宰治『走れメロス』、魯迅『故郷』、森鴎外『高瀬舟』などは定番中の定番です。
この教材はこれからも消えることはないでしょう。
教師なら誰でも必ず教えた記憶があるはずです。
それと同様に高校にも定番があります。
芥川龍之介『羅生門』、梶井基次郎『檸檬』、中島敦『山月記』、夏目漱石『こころ』、森鴎外『舞姫』などです。
これらの小説が今後どのようになっていくのか。
現在のところ発表されているのは1年生用の「現代の国語」「言語文化」の2冊だけです。
「現代の国語」は読む、聞く、話す、書くという4つのコースをまんべんなく散りばめています。
小説は入っていません。
許可されたのは第1学習社の教科書だけです。
これは大きな社会問題になりました。
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今後、文科省の指導はさらに強化されるものと思われます。
「言語文化」は古文と漢文がメインです。
そこに芥川龍之介『羅生門』、太宰治『富岳百景』、夏目漱石『夢十夜』、葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』、志賀直哉『城の崎にて』が1つか2つ載っているに過ぎません。
先生方はどうやって時間配分をしながら授業をすすめるのでしょうか。
現場の苦労が十分に察せられます。
おそらく「現代の国語」の時間内で新聞を読む、意見を発表するといったようなリテラシー重視の授業をしながら、時に「言語文化」の中の小説を短時間で読むといった展開をするしかないでしょう。
多くの時間を割くことは難しいと思われます。
古文も漢文も
古文などは最初に教えなくてはならないことがたくさんあります。
特に基本的な動詞の活用などは中間テストまでに、一通りやらなければなりません。
それとあわせて漢文の書き下し文も基本を教えなくてはなりません。
それを週に2時間の授業の中でやりながら、あわせて、小説を読み、論理的な評論をとりあげなくてはならないのです。
これはかなりきびしいですし、実現性は低いですね。
「時代に合わせた教育」という言葉は確かに有効です。
しかし公立高校の場合、生徒のレベルが非常に偏っています。
異動する学校は千差万別です。
「生きる力」という目標をあげたとしても、現場ではもっと現場に即した授業をしなくてはなりません。
満足に文章を読むことができない生徒も多く在籍している高校もあります。
コミュニケーション能力をたかめるために、インタラクティブな授業をしたいとおもっても、それがかなわない学校はたくさんあるのです。
国語力とは何かという意見も最近はよく聞きます。
基本は読む力、書く力、話す力、聞く力を付けることにつきるでしょう。
しかし話す力、聞く力から、次は書く力に重点を移していくことも大切です。
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授業の中でも作品の面白みに重点を置き、それを自分で解きほぐす。
さらに他の人に考えをひろめる。
もちろん、プレゼンテーション的な能力も必要です。
しかし書くことにさらに特化して、正解のない中で、あえて試みてみることが大切なのです。
話す、書くといったアウトプット能力が身につけぱ、AI時代を生き抜くことができるでしょう。
文章を書けることは後の人生にとって、深い意味を持っています。
そのこともあわせて伝えたいですね。
時間は限られています。
情緒を育てることが、このカリキュラムの中ではたして可能なのか。
国語科教師の模索はずっと続きます。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。