【空海・最澄】密教と顕教の教えが2人を割いた【陳舜臣・司馬遼太郎】

空海・弘法大師

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は空海・弘法大師の話をします。

この人はさまざまな言われ方をしています。

空海を理解するには格好の本があります。

陳舜臣の『曼荼羅の人』と司馬遼太郎の『空海の風景』です。

この2冊をぜひ読んでみてください。

前から空海には興味がありました。

東寺というお寺を御存知ですか。

京都駅から五重塔が見えます。

歩いて20分くらいのところにあります。

東寺は、平安京鎮護のための官寺として建立されました。

国家のためのお寺です。

羅城門を挟んで、東寺と西寺がありました。

しかし西寺は現在ありません。

990年に起きた落雷による火災によって焼失したのです。

その後、再建はされたものの、次第に荒廃し、鎌倉時代に五重塔が焼けて廃絶しました。

それ以後再興されることはなかったのです。

一方の東寺は嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えました。

しかし一時期は本当に荒れ果てていたこともあるのです。

応仁の乱の頃が特にひどかったようです。

それが今のような状態に戻ったのは、ひたすら弘法大師の徳であると多くの人が語っています。

それだけ魅力のある人だったのでしょう。

貧しい人への施しや灌漑事業などの社会貢献を人一倍しましたからね。

真言密教

東寺には今まで何度も行っています。

京都へ行ったら必ず寄ってますね。

とにかくこのお寺の仏像は見事です。

金堂の薬師三尊、講堂の21体の彫像群は必見です。

あれだけ壮大な仏がズラリと並んでいると、ちょっと声がでません。

弘法の市も味わいがあります。

コロナが再び蔓延しそうな気配ですので、一段落したらでかけてみてください。

密教の教えは何かという話になると、あまりに難しくてぼくなどにはよくわかりません。

普通は長い時を経ないと人は成仏できないとされています。

これは顕教の考え方です。

しかし密教は真言宗の宗祖弘法大師が即身成仏を説いているのです。

即身成仏とはいま生きているこの身のまま、仏に成る可能性があるという教えです。

これが公然と説かれた教え、いわゆる顕教と呼ばれているものとの大きな違いなのです。

密教というくらいですから、全ての儀式をあまり公にしてはいません。

むしろ秘密に伝授する灌頂などの秘儀が多いのです。

祈りのための法具と呼ばれるものがたくさんあり金剛杵(こんごうしょ)などはその代表ですね。

博物館などで見たことがあると思います。

曼荼羅の人

空海のことが知りたかったら、この本がお勧めです。

陳舜臣の力作です。

小説は遣唐使船に乗って留学をするところから始まります。

空海は無名の僧でした。

20年の留学予定をわずか2年で切り上げて帰ってきます。

その時は既に密教伝授の第一人者となっていました。

当時の航海は天候次第です。

どの浜へ着くのかも予定が立たなかったのです。

命がけの船旅でした。

案の定、嵐にあい、予定とは全く違う南の土地へ流されました。

そこからどうやって長安の都までたどりついたのか。

それが前半の内容です。

空海は言葉というものが持つ力を本当によく知っていた人だといえますね。

語学の天才でした。

最初に辿り着いた土地の役人に提出した書状は格式のある整ったものでした。

少し読んだだけで、只者ではないということが、すぐに了解されたとあります。

その文字の美しさがまず比類のないものでした。

truthseeker08 / Pixabay

それとともに韻律の響きのみごとさ、内容の豊かさが群を抜いていたのです。

どれをとっても学識の広さと深さを実感できました。

後半は唐の都、長安での様子です。

皇帝の信任厚い、青龍寺の恵果阿闍梨から伝法灌頂を受ける場面が印象的です。

空海はわずか2年しか寺にいませんでした。

日本から来た留学僧が、はるか以前から修行している現地の僧達を飛び越して灌頂をうけたのです

灌頂というのは正式に僧と認められる最高の儀式です。

誰もが受けられるワケではありません。

たった2年しか在籍していなかった他国の僧に、唐で最も権威のあった恵果阿闍梨が正式の認可を与えたのです。

早く日本に戻り、密教を広めよというのがその考えでした。

恵果はその数か月後に亡くなってしまったのです。

嫉妬や非難が多くあったことは、容易に想像できます。

しかしそれを超えるだけのものを空海は持っていました。

彼は唐の言葉以外にも仏教のためならなにもかも学ぶ意欲に満ちていました。

道教、ゾロアスター教、キリスト教の寺院まで訪ね、教えを請うています。

その意志力が日々の行動の中にあらわれていたと考えるのが自然かもしれません。

別の意味でいえば、彼の巧みな側面もみてとれます。

言葉は悪いですが、利用できるものは権力であろうとすり寄っていきました。

波乱万丈

唐の皇帝にも、重臣にもさらには大和の国の天皇にも、彼は身を寄せたのです。

帰国した彼のその後はまさに波乱万丈でした。

最澄・伝教大師との関係にも興味があります。

当時、帝の信任あつかった最高位にいた最澄と、無名の空海。

そこからのドラマがまた実に人間臭くもあります。

陳舜臣のこの作品は唐にいる間だけのものですが、これ以降の空海にも大いに興味があります。

最澄との関係について知りたければ、司馬遼太郎の本を読んでください。

陳舜臣のものとはかなり見方が違います。

そこが非常に興味深いのです。

小説なのかドキュメンタリーなのか、よくわかりません。

しかし知らないうちに引き込まれていきます。

カメラを手前に目いっぱい引きながら、時にズームアップする手法はさすがです。

特に興味深いのは最澄と空海の関係についてまとめたところです。

最澄は空海に頭を下げました。

その理由は正式な灌頂を受けてこなかったからです。

最澄は顕教が専門であり、密教はほんの少しだけ齧った程度だったのです。

その頃は顕教の方が優れた仏教だと考えられていました。

しかし空海の持参した新しい仏教は、貴族の間に救済の魂を植え付けてしまったのです。

空海は僧としては最澄よりも格下です。

最澄は怒りをこらえ、自分の一番弟子を空海のもとに派遣し、弟子を通して密教を学ぼうとしました。

明らかに彼は慌てていました。

日本に最初に密教を伝えたのは、最澄なのです。

しかし彼は密教のほんのわずかしか学んでいませんでした。

正式な灌頂の秘法もよく知りません。

ところが帰ってみると、桓武天皇は病気が重く、怨霊に悩まされていました。

加持祈祷を朝夕にするという密教に関心を抱いたのも当然のことでしょう。

後輩の空海に頭を下げてまで、教えを請うた時の最澄の気持ちはどうだったのか。

それに比べれば、空海には山師的なところが多分にありました。

しかし同じ仏教を学ぶ者同士です。

空海は唐から持参した密教の法具も貸し出すつもりでした。

しかし両者はやがて決別します。

その理由として司馬遼太郎は、密教の伝授法について語っています。

師からの直接伝授がこの宗派では不可欠なのです。

空海は、最澄に弟子として3年間は学ぶことを期待しました。

しかし最澄は空海から密教の経典を借り受けては写経することを繰り返すだけです。

彼から直接学ぼうとはしなかったのです

両者の決別は必然だったのかもしれません。

このあたりは人間の野望にからんで1番生臭いところです。

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両者の関係がみえてくると、ぐっと世界が開けます。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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