【コロナ禍・死生観】人間は生きているだけで十分に尊い存在なのだ

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コロナ以後の自己実現とは

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

数年前から入試問題ばかり解いています。

小論文の指導に役立つからです。

その中に生きることの意味を問うテーマがいくつもありました。

近代以前の神がまだその意味を持ち得た時代と、産業革命以後の時代では、人の生きる意味が変化したというものです。

なるほど、現代は社会での自己実現が一つのメルクマールなのかもしれません。

そこに人間の生の意味を捉えようとする考え方があるのは、ごく当然なことなのです。

かつて人は天国や浄土を夢見て、どれほど現世が悲惨なものであっても、ある意味では幸せに生きていけました。

そこには宗教上、確実な来世が存在したからです。

しかし神なき時代に入りつつある今、地球が丸いといって死んでいった科学者の存在が不思議なものにさえ思われてなりません。

それは今や全て自明のことです。

逆にいえば、そうした場所からしか、自分の生を考えられなくなったのです。

私たちはDNAの存在も知りました。

生殖医療、あるいは皮膚からも細胞を増殖できるというニュースまで届いています。

同時に突然襲ってくるコロナウィルスのような感染症の存在にも出会いました。

かつての人々とは全く違った死生観の中にいます。

今年の小論文にはこの問題がかなり出るでしょうね。

コロナ以前とコロナ以後では明らかに死生観が変わったと思います。

最近、やっと感染者の火葬などにも親族が付き添えるようになったという報道がありました。

少し前まで、それもかなわなかったのです。

病院から火葬までは完全に封印された状態のままでした。

亡くなった人に花を手向けることさえもできなかったのです。

感染症の恐ろしさをあらためて感じます。

人は生まれて死ぬ

人はただ生まれて死んでいくだけの存在なのでしょうか。

コロナ以後の問題を考えるとどうしてもこの問いにぶつかります。

ちなみに時々自分でも口ずさむ歌にこんなフレーズがあります。

沖縄音階の曲です。

BEGINが歌っています。

1度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

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「昔美しゃ 今美しゃ」

昔おじいがよ
サバニにゆられてよ
渡るこの海の
海の美(かい)しゃよ

昔おばあがよ
パインの畑をよ
歩く姿のよ
姿の美しゃよ

ゆらゆらと白い波が
遠くに消えたよ
おじいとおばあのよ
景色も消えたよ

昔おとうがよ
鳴らした三線(さんしん)と
唄った島唄の
唄の美しゃよ

昔おかあがよ
つむいだ糸でよ
織った上布(じょうふ)のよ
上布の美しゃよ

夜が更け祭りのあとが
かすかに残るよ
上布も島唄も
かすかに残るよ

昔ぬ美しゃや
忘れてゆくけれど
忘んな心ぬ
心ぬ美しゃよ

昔ぬ美しゃや
今も美しゃよ
共に語らな
浮世(うちゆ)ぬ美しゃよ
共に渡らな
浮世ぬ美しゃよ

不思議な時間感覚

この歌には不思議な時間のたゆたいがあるような気さえします。

なんの前触れもなくこの世にあらわれて、そして自然に消えていく。

ただそれだけの存在が人間なのではないかという曲です。

おじいもおばあも、つまりはぼくたちの近い将来の姿そのものなのです。

そこにはどんな意味もなく、ただ人の営みがあります。

哀しみも喜びも、その生にはこびりついていたでしょう。

しかしそんな全てを忘れ、やがて遠くへ消えていく。

人間はそれだけでいいのではないのかという歌です。

確かに社会的自己実現を果たすということはすばらしいことです。

しかし同時に肩ひじを張らずに、ただ生きていくということの力強さを考えさせます。

今年はぼくの周囲でも、たくさんの人が亡くなりました。

長く生きるということはたくさんの死者に出会うということでもあります。

2001年に48歳で亡くなった歌手、河島英五の歌に「生きてりゃいいさ」というのがあります。

加藤登紀子さんが今も歌っていますね。

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君が悲しみにこころ閉ざした時
思い出してほしい歌がある
人を信じれず眠れない夜にも
きっと忘れないでほしい
生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
そうさ生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも立ちどまりはしない
めぐりめぐってゆくのさ
手のひらを合わせよう
ほらぬくもりが君の胸にとどくだろう

生きているだけで尊い

この歌のキーワードはまさに「生きてりゃいいのさ」そのものです。

生きている間にどれほどのことをしたのかというのが近代の問いです。

まさに今の図式でしょう。

プラグマティズムはそれを地位や金銭と置き換えました。

格差社会と呼ばれる現在、息苦しい時代閉塞の中にいます。

これだけ階層化されてしまうと、少しのバイパスくらいでは、なかなか逆転は難しくなってしまいました。

かつて明治維新の頃、薩長土肥の侍たちが新しい時代の夜明けだと豪語しました。

彼らの子孫たちが、今の日本の近代産業の礎となり、今日の繁栄を築き上げたのです。

それから150年の月日を得て、再び新しい時代を作り出すだけの自由を手にしたのか。

残念ながら達成していない気がします。

今後、どのような社会がやってくるのか。

全く予断を許しません。

現在のコロナ対応策はすべて国の借金に頼っています。

その支払いは次の世代に負うところが大きいのです。

社会保障の基盤も苦しい局面です。

年金、健康、介護保険なども先が煮詰まったままです。

現在の水準を長く保つことができないのは明白なのです。

保険の負担も毎年じりじりと上がっています。

それでも人は生まれ、死んでいきます。

世代間論争は常に早く生まれたものが幸運だったという怨嗟の場でもあります。

次の時代の死生観はどのような形になるのでしょうか。

コロナ禍にあえいだ不思議な1年を間もなく終えます。

後になって、2020年はどういう位置づけになるのか。

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今はそれを知りたい気がします。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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