【小論文・言語力】密度の濃い書き言葉への執着が読解力復活のカギか

小論文

密度の濃い表現

みなさん、こんにちは。

小論文添削歴20年の元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は「ことばの力」というテーマを考えてみます。

新指導要領に基づくカリキュラム「文学国語」についての懸念を以前このサイトでも記事にしました。

「論理国語」との対比で説明したものです。

記事の最後に貼り付けておきます。

あとで読んでみてください。

最近、生徒を見ていて感じることがたくさんあります。

その中で1番気になることは何か。

それは書く言葉の力が確実に落ちているということです。

添削の仕事をしていると、悲しくなるくらい幼稚な表現が目につくようになりました。

少なくとも論理的な分析、構成が必要な小論文にとっては致命的な欠陥です。

いつ頃からの現象でしょうか。

以前より今の方が明らかに書く力が弱まっています。

なぜか。

理由は明らかです。

密度の濃い表現を読まなくなったからです

どこへいっても近代文学などは図書館の隅に追いやられています。

中学校の図書館などを見ると、ほぼ話し言葉が中心の読み物ばかりです。

ある意味、当然の流れともいえます。

ブログ、ツイッター、メールが中心の現在、そこで通用する言葉が全てなのです。

それ以上に密度の濃い表現をとる必要は全くなくなりました。

TeroVesalainen / Pixabay

比較的に軽めの言語が往来を闊歩しています。

その1つの理由に表現しやすいことばが世界を覆い尽くしたという現実があります。

その代表が英語です。

全てを論理で追い詰めるというある意味わかりやすいタイプの言語なのです。

英語は多くの国や民族に存在していたことばを次々と飲み込みつつあります。

極端な話、日本においてもある種の企業では全ての会議を英語で行うなどという現実があるのです。

英語はYesNoのはっきりした言語

インターネットの時代になり、ますます英語の支配力は強まっています。

英語はつねにYesNoを要求します。

さらに主語が誰であるのかを明示させます。

ある意味、非常に理解しやすい言語なのです。

同じ人が英語を話す時と、日本語を話す場面を想像してみてください。

全く人格が違ってみえることすらあるくらいです。

自己表現の道具としては、実に便利なツールだといえるでしょう。

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明治維新の頃、日本人はあらゆる英単語を日本語に翻訳しました。

それが可能だったのは、日本人の優秀さだけでなく、漢字が多くの意味を持ち得ていたからです。

その恩恵にあずかれなかった多くの言語は、結局英語の軍門に下りました。

多くの国で英語が第2言語から、共通語になっていったのです。

日本は幸い公用語としての日本語を持ちえたため、英語を第2言語化するところまでにはいたっていません。

しかし時代は変わりました。

インターネットの普及は止まりません。

あらゆるIT用語に英語が使われています。

プログラミングも同様です。

それとともにSNSなどの広がりがいやおうもなく、私たちの眼前の風景になっています。

母国語が内部から崩れつつあるのです。

かつての文学に使われた書き言葉としての日本語はすでに過去のものになりつつあります。

現在よく読まれている小説や新書などをみればすぐにわかります。

主語を明確にしないものや、難解な表現の文章は影を潜めつつあるのです。

若い世代の言葉

読む能力の不可逆性という言葉をご存知ですか。

つまり書き言葉を理解できる人は、話し言葉がわかります。

しかし話し言葉しかわからない人は、書き言葉が理解できないという意味なのです。

もう少しこのテーマを深掘りすると、古文の問題につきあたります。

日本語における究極の書き言葉はいわゆる「古典文学」です。

まさか古典作品を原典のまま読めなどとは言いません。

しかし少しやさしい古文の文章でさえ、今の若者には歯が立たないのです。

その証拠として、全文が古語で綴られた森鴎外の『舞姫』などはいい例です。

今までに何度も授業で扱ってきましたが、最近では彼らと無縁のものになりつつあるのを感じます。

全文を読むのに50分の授業を2~3コマは使わなければなりません。

なんとか読めても、意味が全くわからないという生徒も多いのです。

ある出版社では『舞姫』の現代語訳を文庫本で出版しています。

それくらい難しいのです。

森鴎外は無理だとしましょう。

しかし言文一致をめざした夏目漱石の小説なども、大変に難解だと生徒は言います。

経済におけるプラグマティズム優先の社会において、書き言葉は今や不要になりつつあるのだというこ

とがとてもよくわかるのです。

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先人たちの言葉の集積も、今となっては無益なものになりつつあります。

しかし読書経験がなければ、難解な論理的思考を伴う学問はできません。

そういう場面にまで到達してしまったというのが、率直な感想です。

もちろん、話し言葉で書いたすぐれた作品もあります。

そうはいっても日常的な消耗品として、暇つぶしの道具になってしまっている作品があまりにも多いと

いうのも事実なのです。

書く言葉への執着

用不用説というのがあります。

つまりいらないものは消えていくという考え方です。

ものの進化はつねにニーズと背中合わせです。

文学が消えていく土壌が現代の経済優先社会であるということはまず間違いがありません。

塾考や推敲のあとが見られない文章がツイッター上で日々繰り広げられていくことに、怖ろしさを感じます。

ネットの匿名性も手伝って、表現に思考の爪痕がないのです。

瞬間的に考えた言葉がすぐに飛び出してくる。

他者を傷つけてしまうという想像力が働きません。

それがそのまま、小論文の答案とリンクしてくるのです。

添削をしながら、どの部分を真剣に考察したのだろうと首をひねることもあります。

けっして大袈裟な話ではありません。

ここから言えることはなにか。

やはり書き言葉に対する執着でしょう。

言葉の堆積にさらされて、鍛えてもらうことしかありません。

そこまでいかないことには、おそらくいくら文章を書いても本当に読んでもらえるものは生まれてこな

いにちがいありません。

もちろん目的は入学試験です。

合格しなければ意味がありません。

しかし目標をもっと先に設定することが必要でしょう。

読まなければ書けない。

これが全てです。

これ以外に真理はありません。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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