【小論文・教育格差】個性重視と知識偏重主義のはざまで揺れる日本

学び

2つの人間観

みなさん、こんにちは。

小論文添削歴20年の元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は教育の問題を考えます。

このテーマはどのような角度から出ても書けるようにしておかなくてはいけません。

さまざまな問題が複雑にからみあっています。

簡単に解きほぐすことはできません。

基本は2つの人間観から成立しています。

良い社会人をつくるための集団主義か、個性を重視した教育かという点です。

日本人は戦後の経済復興のために、集団主義的な教育方法をずっととってきました。

島国の特性とうまくからみあい、機能してきたのです。

良い社会人といえば、聞こえはいいですが、基本は不平をいわない労働者の大量生産です。

しかしそれもやがて終わりを告げる時がきました。

グローバル化ととともに格差社会が進み、かつてのように集団で同じ方向を向いて働くというシステムも機能しなくなりつつあります。

それと同時におこったのが「ゆとり教育」です。

あまりにも受験戦争が厳しくなりすぎ、校内暴力なども頻発しました。

勉強のできない者には生きる意味がないのかという内側からの反発でした。

その論点をふまえて新しく生まれたのがまさに「ゆとり教育」なのです。

この流れはある意味で必然だったのかもしれません。

しかしただカリキュラムにゆとりを持たせるだけの戦略は簡単に成果を出せませんでした。

再び、大幅な入れ替えを現在しているところです。

ただし根本的な人間観にまつわるコンセプトがぐらついているままでは、なかなかうまく先へ進みません。

それらと連動して大学入試システムも大幅な変更を余儀なくされています。

しかし拙速な改革はいまだに着地点がみえていません。

個性を重視するということ

個性という言葉は大変に口当たりがよく、甘い響きを持っています。

押しつけ教育や詰込み教育との決別は個性という言葉と一緒になって大いに喧伝されました。

しかしこの考え方が進むと、競争を否定しやすくなります。

それでなくても日本人は集団主義的な要素を持っているため、努力することが個性の尊重と相いれないことになってしまいがちでした。

学力の順位と個性は相性が悪かったのです。

あらゆる側面に個性を重視しようとしたことはよかったに違いありません。

しかし行き過ぎたことで、逆に個人の持つ能力を軽んじてしまうという暴挙にでてしまう結果となりました。

実際は1992年あたりの学習指導要領でも「ゆとり教育」への流れはあったのです。

Wokandapix / Pixabay

偏差値に代表される学力重視には疑問が次々と寄せられました。

受験地獄という表現に代表されるような、重箱のすみをつつく式の入試問題が作成されたのです。

それらに対する反省が「ゆとり」という表現に集約されました。

その結果、2002年からの改革はさらに進んだものになりました。

完全週5日制、総合的な学習の時間導入がそれです。

極端に単元を削り、教科書を薄くし、余った時間を選択科目にしました。

嫌いな単元は履修しなくていいというシステムにしたのです。

詰め込むことでマイナスばかりが目立ったのを、一気に解放したため、揺り戻しが激しいものになりました。

基本的な学力を欠いたままの生徒が大量に発生したのです。

個性という言葉は甘い響きだということを言いました。

まさにその結果がこれだったのです。

全てを個性だといってしまえば、それで済むと考えた親たちは、掃除の当番をしないのも、勉強をしないのもすべて個性と言い換えたのです。

さすがにこれでは学校の運営が成り立ちません。

全てを学習者個人と切り離して丸暗記をするような教育方法がもちろんいいワケではありません。

現実との接点なしに学ぶことの意味は薄いと言わざるを得ませんでした。

しかしだからといって何も記憶しなくていいということはないのです。

新しい学力観

基本的な事象を明確に自分のものにするということは、大切なことです。

それさえも放棄してしまえば、教育が機能しないのは言うまでもありません。

2002年に始まった「ゆとり教育」はわずか10年未満で急速に萎んでしまいました。

新しい学力観にそった教育のあり方が、現在問われています。

今後の教育問題のポイントはまさにここにあります。

2011年、小学校の教科書の内容が平均25%増えました。

「ゆとり教育」に対する完全なアンチテーゼです。

n-k / Pixabay

なぜここまでの急展開が起こったのか。

1番の理由はよく言われていますが、PISAの順位が極めて下がったことによります。

学習到達度調査と呼ばれていますが、特に考えさせるタイプの問題の得点分布は悪いものでした。

文部科学省だけでなく、経済団体などの慌てた様子があちこちで報じられています。

グローバル化時代の新しい教育観を早く作り上げる必要があったのです。

どこに原因があったのか。

その理由を「ゆとり教育」に見出すまで、それほどの時間はかかりませんでしてた。

教科の内容が増え、以前よりも覚えなくてはならないことの内容は格段に増えています。

さらに近年、プログラミング、英語などもカリキュラムに入りました。

これらがどのように機能していくのかは、しばらく経過を観察しなければなりません。。

本来の「ゆとり」を持たせようとしてうまくいかなかった反動が、ここへきて一気に揺りもどされたと考えればいいのではないのでしょうか。

今後の教育のあり方は

結果がどのように出るのかは、しばらく時間がかかります。

しかし従来のように知識だけを詰め込む方式の勉強法を続けていくと、必ず破綻するのは目に見えています。

獲得した知識と個人との関係がきちんと明確になっていないと、結局なんの意味もないということになってしまいます。

特に小論文などの試験では、本当に身についた知識しか、言葉になりえないという現実があります。

かつてのようにただ覚える機械になり、その分量と精度を争うといった競争は意味を持ちません。

しかし新しい器をつくりあげるのは容易ではありません。

昨年度も従来とは違う大学入学試験の問題を作り上げるのに、入試センターは大変な苦労をしました。

英語などは外部の試験に頼り、国語、数学などには記述式を導入しようとしたのです。

採点は民間の業者に任せるというところまで辿り着きました。

しかし話はそう簡単に進まず、現在凍結されたままです。

誰が問題をつくり、誰が採点をするのかという段階でつまづいてしまったのです。

特に記述式の問題には採点者の主観が入ります。

それを全国同じ基準で採点するというのは、至難の業です。

信頼が不十分なまま、見切り発車をしようとして、結局延期になりました。

入学試験1つでこれだけ迷走しています。

カリキュラムの内容を変更するということの難しさが象徴されていると思いませんか。

高校の国語についても「論理国語」を重視するあまり、文学がないがしろにされるのではないかという懸念は依然として根強いのです。

新しい時代の新しい入れ物には何がふさわしいのか。

小論文の問題はどの側面からでも出題できます。

教育問題の根幹を自分の目でしっかりと見抜いてください。

コロナ禍における教育の格差もはっきりしてきました。

ネット式の授業も格差によって受けられない家庭も存在しています。

学力の面においても開きが出ているのです。

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そうした問題もあわせて考えておいてください。

教育関係に進む人だけでなく、他の学部を受験する人にとっても、大切な視点です。

慌てることなく、自分の問題として把握してください。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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