桜旅
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
4月に入り、5日間ほど京都へ旅行をしたこともあって、投稿ができませんでした。
桜を見に出かけたのです。
インバウンドの旅行客が多いという話を聞いていました。
しかし彼らが行く場所は限られています。
決まったところを除けば、京都は静かでした。
桜も見事でした。
東京ではあまり見かけることの少ない紅しだれ桜は、平安の都に似合っています。

奈良の佐保川沿いにも出かけましたが、こちらはソメイヨシノの方がふさわしいようです。
京都の寺の屋根の形には、なぜかしだれ桜の方が似合います。
なぜでしょうか。
公家文化の柔らかさが、あの枝のはんなりとした感覚にあっているように思えてなりません。
日本人は噴水よりも滝を好むと、かつて評論家・山崎正和は書きました。
下からエネルギーを上に向けて放つのは、自然ではありません。
やはり水は上から下へ流れるのです。
水は方円の器に従うといいますね。
無理をすることを日本人はどこまでも嫌うようです。
DNAのどこかに宿っているのでしょうか。
生々流転という言葉もあります。
紅色の小さな桜の花が真っ青な空に映えた時、至上の幸福を感じます。
あれはこの世の風景ではありません。
おそらく多くの人は、彼岸の景色を想像しているのではないでしょうか。
桜の木の下には死人が埋まっていると言い放った作家もいます。
実感のこもった言葉です。
法金剛院と妙心寺退蔵院の紅しだれ桜がことに見事でした。
本が高い
今日、たまたまスマホを覗いていたら、そこに「本が高い」という書き込みがありました。
実感がこもっていたので、ついコピーしてしまいました。
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こんなこと、本当に本当に言いたくないけど。
本が高い。
不当な値段だとは思ってない。
ただ、読書すら自分の生活水準に見合わない趣味になったら辛すぎる。
本ぐらい、欲しいと思ったときに欲しいものを気軽に買える人生でありたかった…。
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確かにその通りですね。

今や文庫本でも1000円以上します。
講談社の文芸文庫などは、どこにもない小説や評論を探すときには必ずチェックしなければなりません。
しかし高い。
稀覯本(きこうぼん)などというレベルの話ではありません。
この言葉を聞いたことがありますか。
古書や限定版など、世間に流布することがまれで、珍重される書物のことをいいます。
ここではそんなにすごい話をしているワケではありません。
ちょっと前には書店に置いてあった本のことです。
しばらくすると、売れない本はすぐ版元に送り返されてしまいます。
書店は取次の場所にすぎません。
売れなければ、すぐに返品です。
それでなくてもスマホ全盛の時代です。
本を買って読もうとする人が減っていることは容易に想像できます。
教養主義の衰退
本を読むというのは、すでに趣味の領域なのかもしれません。
どこかに教養主義の匂いもしますしね。
勉強の延長とでも言えばいいでしょうか。
子供を寝かしつける時に童話を読んであげるなどという風景は、たとえ教養主義だといわれても、やはり望ましいものに見えますが。
文字には想像力を喚起する力があります。
それを縦横に使えば、自分の世界を広げていくことができるのです。
1000年も2000年も前に亡くなった人とも、自由に魂の交感ができます。
彼らの息遣いを我が物にできるのです。

今回の旅行でも大いに参考にさせてもらった本がありました。
水野克比古さんの編集した『京都桜旅』という写真集です。
姉妹本には『京都紅葉旅』もあります。
最初に見つけたのは図書館ででした。
あまりに桜の写真がきれいなので、自分でも欲しくなって求めたのです。
もちろん、本が高くなったことはよく知っています。
かつては引っ越しをするたびに、段ボールに詰めるのが大変でした。
しかしいつの頃からか、全く買わなくなったのです。
今ではすべての本を図書館で借りています。
幸い、ネットでリクエストをすれば、必ず手に入ります。
もちろん、時間がかかるものもあります。
どうしても早く読みたいときは、書店にでかけることもあります。
最近、それも間遠になりました。
やはり値段が高いことと、置く場所に困るからです。
何度も読み返す本
今、自分の周囲にある本は、限られています。
大きな書棚が2つはありますが、これは最低限です。
かつては倍以上もありました。
ある時、断捨離を決行したのです。
何度も読まない本は、捨てました。
残念でなりませんでした。
それでももう一度読みたければ、図書館で借りようと考えたのです。
作者には申し訳ない気持ちでいっぱいです。
今や、印税で生活できる作家はわずかです。
読者が買ってくれなければ、一銭も彼らの手には入りません。

日本の小説はその内包するエネルギーを次第に失いつつあるのではないでしょうか。
世界が混沌としている中で、想像力を発揮する場面が減っているようにも思えます。
かつてのように核時代への想像力を最大限に発揮しようとした大江健三郎や、紀州の血の中に可能性を広げようとした中上健次はもういません。
読んだ後、打ちのめされるような感覚もなくなりました。
評論家の柄谷行人も、日本の小説の可能性に懐疑的な文章を書いています。
高いから買わないのか。
買おうとしないのか。
必要がないのか。
それだけではないような、もっと本質的な部分に触れている気もします。
先日読んだ、世阿弥の『風姿花伝』の中に「寿福増長」「衆人愛嬌」(しゅにんあいぎょう)という言葉がありました。
誰のために舞うのかという難しいテーマです。
結局、買ってもいい本は古典と呼ばれる作品に戻っていくのかもしれません。
何事にも通じる力を持っているからです。
これは教養主義とは別のものです。
生きるための力の源泉とでも呼べばいいのかもしれません。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。