虚ろなまなざし
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は現代アラブ文学研究者、岡真理氏の評論を考察します。
内容は非常に厳しいものです。
教科書の中に所収されている文章です。
『彼女の「正しい」名前とは何か』(青土社)の中の「蟹の虚ろなまなざし、あるいはフライデイの旋回」というのが正式なタイトルです。
教科書では「虚ろなまなざし」と改題されています。
岡真理氏はパレスチナ文学の研究と同時に、アラブ社会が抱えているさまざまな問題を鋭く追究している女性です。
高校の現代文の教科書には、彼女の評論が幾つも収められていますね。
ここでの視点は被害者の声を代弁しようとすることで、抜け落ちてしまうものは何かというものです。
教科書に載せられた写真がショッキングなので、一瞬引いてしまう人がいるかもしれません。
しかし問題は写真だけではありません。
そこに示された現実の怖さにあります。
具体的に何がどのようであったのか。
文の冒頭の部分を読んでみましょう。
なぜ「虚ろなまなざし」というタイトルをつけたのかが判明します。
私たちが日常的に無意識のうちにしている、加害性を鋭くえぐり出しているのです。
素直に、怖いと思いました。
あなたは南北問題という言葉を耳にしたことがありますか。
世界のシステムは当たり前のように、この構造で出来上がっています。
日々、飽食している自分の姿を鏡に映してみてください。
本文(前篇)
キャンプ場に帰る体力ももう残っていないのか、道に小さくうずくまる幼い難民の少女。
その少女の背後には、一羽の、黒い巨大な鷲が、今にも両翼を広げて、少女に襲いかかろうと、少女が力尽きて倒れるのをねらっている。
スーダンの難民キャンプを取材していた。
南アフリカ出身の青年カメラマンが、キャンプの途上でたまたま遭遇した、この難民の少女の写真は、その年のピューリッツァー賞を受賞し、その写真は飽食している「先進国」の茶の間にも届けられ、見る者に大きな衝撃を与えた。
だが、その衝撃はやがて、異様な事件へと発展していく。
アメリカで、この写真に衝撃を受けた人々が、カメラマンを一斉に非難しはじめた。
なぜ、彼は、少女を救おうとはしなかったのだ、この後、少女はどうなったのだ、写真を撮る前に、カメラマンは人間として、すべきことがあったのではないか。
カメラマンは非難の大合唱に対して、少女がやがて立ち上がり、キャンプのほうへ歩いていくのを見届けてからその場を立ち去ったと釈明していたが、ある日、自ら命を断ってしまった。
カメラマンの自死の理由が、彼の写真に衝撃を受けた人々の、彼に対する「人道的」非難であるなら、彼は自分自身の写真に殺された、ということになる。
より正確に言えば、写真のなかのあの、少女に。
ただの「それ」でしかない少女
この文章のすぐ後には、少女には恐怖も苦痛も空腹も、そうした感情のいっさいがなくなってしまったかのようだとあります。
虚ろなまなざしの少女はただの「それ」でしかない、と書かれているのです。
「それ」でしかないとはどういう意味なのでしょう。
この難民の子供には感情がありません。
次の瞬間、鷲に襲われたとしても、それはそれだけのことなのです。
つまり自分の置かれた状況について、一切の意味を欠いている状態であるということです
その状況の中で、なぜ写真を撮ったのか。
それも無表情な少女を。
なぜ助けようとしないのか。
あなたはそれでも人間か。
ピューリッツァー賞を受賞したカメラマンへの非難は世界中にひろがったのです。
本文(後編)
私たちが生きる、この地球社会に山積した問題の数々。
民族問題、環境問題、南北問題、人権問題。
それはこの世界に生きる私たち一人一人の問題でありながら、放っておいても、いつか、どこかのだれかが解決してくれるかのように、いつもは、他人事のように忘却を決め込んでいる私たち。
これらの問題を紹介するテレビや新聞の特集や詳細なルポも、ワイドショーで報じられる芸能人の不倫ネタと同じような情報の1つとして消費してしまう私たちが、ある日、突然、変貌する。
アフリカの子供たちに毛布を送ろう、お米を送ろう、お金を送ろう。
私たちを突如、行動する主体へと駆り立てるもの。
通常、「ヒューマニズム」ということばで語られるそれは、テレビ画面に大きく映し出されたアフリカの難民のこどもの、その虚ろなまなざしである。
そのような視線にはからずも出会ってしまうこと、それが、私たちのトラウマとなる。
そして、私たちを主体化する。
暴力的に。
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ここで少し考えてみましょう。
多くの人はカメラマンの行動を非難しました。
写真を撮る前にやるべきことがあったのではないかということです。
カメラマンは釈明しました。
少女がキャンプのほうへ歩いたのをきちんと見送ったのだというのです。
この釈明はどういう意味を持っているのでしょうか。
だから私は悪くないという意味です。
無限ループ
誰もが少女の虚ろなまなざしを見たいとは思わないはずです。
自分は少なくとも加害者になりたくない。
だから背後から声なき声をあげようとするのです。
しかしそれは本当に意味をもった声になるのでしょうか。
ここが最も難しいこのテーマのカギです。
いくら叫んでも、飽食している自分がそこにいます。
最も安全な、食糧の十分にある場所から、声をあげて自分の良心を少しでも心地よくしたい。
それは誰にでもある考え方です。
その一見、意義ある行動が、カメラマンを殺し、少女に虚ろな目をさせたのかもしれません。
では私たちは加害者なのでしょうか。
無関心を貫くことは、間違いなく加害的であるといえます。
植民地支配や、先進国のあらゆる行為が、今まで無秩序に行われてきました。
最も厄介なのはそうした行動が、無知から出発し、さらに無関心へと流れ去っていくことです。
極端なケースでは、知っていても知らないフリをします。
次の瞬間、鷲についばまれる少女のイメージを私たちは自分の脳裡に思い浮かべたくはありません。
そのために感情の遮断を試みます。
加害性を意図的に隠蔽するのです。
情報化社会は、全てのものを瞬時に飲み込み、データ化していきます。
実は、私たち自身も消費される情報そのものなのです。
そのことをふだんは意識していません。
無限ループの輪はメビウスの輪に似て、どこが表か裏かがわかりません。
それでも現実の世界の中を生きていかなければならないのです。
この過酷な現実をあなたはどう思いますか。
グローバル化とは南北の格差の固定化に他なりません。
それではどうしたらいいというのか。
再び、この出発点に戻ってきてしまいました。
ここからはあなたが考えてください。
大変に厄介で難しいテーマであることが、理解できたでしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。