「作家・大江健三郎」人間を存在・行動・想像力の結晶として書ききるのが理想

学び

存在・行動・想像力

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は作家、大江健三郎の文学論について考えてみましょう。

亡くなってかなりの年月が経ちました。

今日、文学はどこへ向かっているのか。

数か月前に評論家の柄谷行人氏が朝日新聞に寄稿していた評論が気になって仕方がありません。

それによれば、彼はもう文学は消えたと断言しています。

近年は小説をほとんど読まないのだとか。

いわゆる文学と呼べるものは、大江健三郎と中上健次までで終わったと考えているとありました。

もちろん、この論点には反対論も数多くあるはずです。

しかし人間の生きていく道筋にどうしようもなく言葉を吐くという行動に、ほとんど意味がなくなったと感じている人も多いはずです。

書店に行けばあふれるほどある書籍も、数年すれば皆消えてなくなっていきます。

100年後に残る文学があるとすれば、それは何か。

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つい最近、韓国人でノーベル文学賞を受賞したハンガン氏の 『別れを告げない』を読みました。

本当に久しぶりに、言葉の持つ想像力の豊かさを感じたことに、むしろ驚きを覚えたくらいです。

自分でも意外でした。

滅多にない体験だったのです。

それまでは全てが予測できる感覚にとらわれていたからです。

今はあらゆることを簡単に想像できてしまう時代です。

生成AIの作りだす文章の白々しさを差し引いてもです。

生きる力

大手の出版社が先導している文学賞も、かつてほどの力は持っていません。

そこに人間の生きる力を感じるという読者がどれほどいるのでしょうか。

ネットにあふれる情報の方がむしろ真実に近いのです。

想像力を刺激するといえるかもしれません。

もちろんフェイクであることまでを含みこんでの話です。

大江健三郎は「作家は言葉によって人間を捉えようとします」と述べました。

彼は「言葉によって」を記すことで何を目指したのでしょうか。

それを考えることは、今、意味のあることのような気がします。

あまりにも無力になった言葉の力を、亡くなるまで信じようとした殉教者にも似た状況が見えてくるからです。

高校の教科書「論理国語」の冒頭に彼の評論が載っていました。

その内容を子細に見ていきたいのです。

タイトルは「言葉について」です。

全文は長いので、一部だけ抜粋します。

言葉について

ある言葉がその人間の存在と行動と想像力を十全に表現しえたとき、その言葉は、あたかも一個の人間の肉体そのもののような重みを持ちます。

例えばわれわれが自分の、そこにいない友人について、彼のことを知らぬ他人に向かって、どのようにして彼を実在させることができるか。

言葉によってしかありません。

彼はこのような言葉を語ったと、あるいは自分が彼のために作り出す言葉はこのようなものだと言って、われわれは初めてそこにいない友人を他人に向けて実在させることができるのであります。

もちろん、個人の言葉が時代を予言すると考えることは危険な話です。

ただ、個人によって発せられた言葉でありながら、しかもその時代全体を表現する言葉が、歴史を振り返ってみればしばしば見いだされるのです。

これらの言葉は確かにあれらの時代の人々とその時代そのものを、また全ての時代を越えてその民族の文化そのものを表現していると感じさせる力を、潜めている言葉に出会います。

例えば『おもろさうし』から発掘してきて、外間守善(ほかましゅぜん)氏がよく使われる言葉に「うりずん」があります。

外間氏は「うりずん」という言葉を、まことにくっきりとよみがえらせられました。

ものみなが枯れて乾いている冬の季節の終わりをつげて黒土が盛り上がってくる。

その新しい季節の到来を表す言葉として「うりずん」がある、と外間氏は言われ、自分にとって沖縄戦というまことに激しい冬の季節の後、沖縄の若い人たちが反戦、平和の思想を抱くのは、それこそ「うりずん」の思想なのだと言われるのです。

そのようにして「うりずん」という「おもろ」の時代の言葉を今日によみがえらせて、一挙に沖縄の人間の歴史を貫く存在を照らし出されているのであります。

私どもは自分の言葉をそのように民俗の古典の中から掘り起こすことができます。

自分の個人の内部の暗がりから手探りして言葉を導き出しもします。

われわれはそのようにして自分を歴史のうちに位置づけ、この現実世界に実現するのであります。

それが言葉による表現です。(中略)

われわれはその言葉の発見によって、その死者が言うであろう言葉の発見によって、その死者を、現実世界に向けてはっきり表現することができたのであります。

それはまた、自分の1人に閉じた言葉によって生きているわれわれが、あの人ならばという形で、本当の他者を導入することができたということでもあるでしょう。

注 『おもろさうし』 奄美、沖縄地方に伝わる歌謡「おもろ」を集大成したもの

死者に出会う

大江健三郎は昭和10年(1935)年生まれです。

1994年にノーベル文学賞を受賞しました。

この文章を読んでいくつか疑問を感じませんでしたか。

その1つが作家は言葉によって人間を捉えようとしますとは具体的にどうすることなのか。

われわれはそのようにして自分を歴史のうちに位置づけ、この現実世界に実現するのでありますとはどういうことか。

「うりずん」という表現を例にして説明してみた時、何が言えるのか。

最終的に言葉によってできることとは何なのか。

これは本当に文学の根幹にかかわる難問です。

あなたはこのどれかに答えることができますか。

大江健三郎の言葉の中に、死んだ人間を実在させる手段は言葉だというのがあります。

だれもその人の存在を知らないとき、どんな人だったのかをそこに浮かび上がらせるために、人は最も適した表現を使います。

それ以外に方法がないからです。

写真や動画があれば、それもいい。

しかしそうした装置がない時代の人間と知り合いになりたいとしたら、それは彼らが残した言葉に頼るほかはありません。

昨年、NHKで放送された「光る君へ」は想像を絶する内容で放送されました。

その背景には紫式部の日記があります。

彼女がどれくらい漢詩に通じていたのかは『源氏物語』を読めばすぐにわかることです。

あれだけの長大な作品をきめ細かく構成していったという事実をみるだけで、その才能が桁外れであったことが、誰の目にもはっきりとわかります。

そこにあるのは何か。

言葉です。

人間の存在と行動と想像力を十全に表現しえたかどうか。

それがすべてなのではないでしょうか。

そこまで踏み込めなかったとしたら、それは残らない作品の1つに過ぎないのです。

書くためには覚悟がいります。

それだけの執念を持つためには、内圧が高くなくては不可能です。

だれにもいえず、それでいて誰かに言いたいこと。

そのような言葉の堆積が、大江健三郎のいう「うりずん」なのかもしれないのです。

今回は近頃感じていることを少しだけ文章にしてみました。

いくつかの問いについては、あなた自身で考えてみてください。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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