【宮内卿の君・増鏡】千五百番歌合に呼ばれて名を連ねた栄誉は夢の続きか

千五百番歌合

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

あなたは「千五百番歌合」という言葉を聞いたことがありますか。

鎌倉時代に後鳥羽院が主催した和歌史上最大規模の歌合のことです。

歌合とは左右に分かれて和歌をよみ合い,どちらがじょうずかをきめて勝負をする一種の遊戯です。

しかし、後鳥羽院が主催したということの意味は、想像以上に重いのです。

選ばれた歌人たちの心の中はどのようだったでしょうか。

緊張という言葉では表現できなかったに違いありません。

もちろん、名誉なことでした。

事実、『新古今和歌集』にこの歌合の中から90首が入集しているのです。

それだけ、すぐれた和歌が多かったということの証しです。

歌合が実施されたのは1201年。

後鳥羽院の命を受けた30人の歌人が左右に分かれて、100首ずつ詠みました。

実に3000首の和歌が披露されたのです。

優劣の判定をしたのは後鳥羽院、藤原俊成、藤原定家など、錚々たる面々でした。

その歌詠みの中に、宮内卿の君もいたのです。

彼女の生涯について、はっきりしたことはわかっていません。

若手女流歌人として、俊成卿女と並び称される存在だったと言われています。

歌合の時は、昼夜も問わず和歌の創作に励み、あまりに熱中しすぎて体をこわしてしまったそうです。

この歌合に抜擢され、彼女がどれほど緊張したかは容易に想像できます。

結局、20才前後で亡くなってしまいました。

和歌に捧げた一生だったとも言えますね。

『増鏡』は歴史物語です。

作者はわかっていません。

1338年から1376年ごろに成立しました。

老尼が語るという形式の編年体で記されています。

豊富な資料で風雅な公家社会を描いているのです。

本文

宮内卿の君といひしは、村上の帝の御後に、俊房の左の大臣と聞こえし人の御末なれば、

はやうはあて人なれど、官浅くてうち続き、四位ばかりにて失せにし人の子なり。

まだいと若き齢にて、そこひもなく深き心ばへをのみよみしこそ、いとありがたく侍りけれ。

この千五百番の歌合のとき、院の上のたまふやう、「こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり、

宮内はまだしかるべけれども、けしうはあらずと見ゆめればなん。

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かまへて朕が面起こすばかり、よき歌つかうまつれよ。」

と仰せらるるに、面うち赤めて、涙ぐみて侯ひけるけしき、限りなき好きのほどもあはれにぞ見えける。

さて、その御百首の歌、いづれもとりどりなる中に、

薄く濃き野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え

草の緑の濃き薄き色にて、去年のふる雪の遅く疾く消えけるほどを、

推しはかりたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思ひよりがたくや。

現代語訳

宮内卿の君といった歌人は、村上天皇の御子孫で、俊房の左大臣と申し上げた方の御末裔です。

もともとは高貴な血筋の人でしたが、官位が低いままで、四位ぐらいで亡くなった人の娘なのです。

まだたいそう若い年で、底知れない深い心情だけをお詠みになったのは、たいそう珍しいことでした。

この千五百番歌合のとき、後鳥羽院が彼女におっしゃったことには、

「このたび、私が選んだ歌人は、みんな世間に第一人者と認められた老練な歌人たちばかりです。

あなたはまだ若くて、この催しにはふさわしくないかもしれないが、それでもかまわないと思ったから選んだのです。

是非がんばって、あなたを選んだ私の面目が立つように、良い歌を詠んでください。」

とおっしゃったので、彼女はうれしくて顔を赤らめ、涙ぐんでしまいました。

その様子は、この上なく歌道に心を打ち込んでいるふうだったのです。

誠に感心なことに見えました。

さて、その時詠んだ百首の歌は、どれもそれぞれ大変な名作ばかりでした。

その中に、あったのがこの歌なのです。

「薄く濃き野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え」

薄い緑や濃い緑に野辺の若草が萌え出している様子に、降り積もった雪の融けている跡が見えることだよ。

草の緑の色の濃淡で、去年積もった古い雪の融ける様子を、推しはかった趣向などは、未熟な人は、決して思いつけないことでしょう。

彼女が、年をとるまで生きていたならば、本当にどんなにか、目に見えぬ鬼神さえ感動させたであろうに、残念でなりません。

若くしてお亡くなりになったのは、実に気の毒で惜しいことでした。

観察眼の鋭さ

ポイントはここに登場する和歌です。

歌の意味をよく読み取ろうとすると、彼女の観察眼の鋭さに突き当たります。

草の緑が濃いのは生育が早いから、薄いのは遅いからであるという現象を普通の人は見ていません。

ただ表面上の違いにしか、感じないのです。

それを積もっていた雪がはやくとけたところと、おそくとけたところとの差によるのではないかと想像しているのです。

若草の生育の遅い速いを捉え、野辺の雪が消えていったのにも違いがあったのだろうと推測した、理知的な歌です。

1つの事象に執着しながら、自分の持つ言葉と対応していった彼女の熱意を感じとれれば、すごいですね。

歌人、紀貫之は『古今集』の仮名序で次のように書きました。

「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせるのは歌なり」というのです。

その内容を重ねて理解すれば、彼女の思いが伝わるのではないでしょうか。

宮内卿は村上天皇の子孫で、若くして深い趣を詠んだ歌人でした。

千五百番歌合の際、後鳥羽院からその歌才を認められ、

期待の言葉をかけられて感激し、その期待に応えて見事な歌を詠みきったのです。

長生きしていたら、鬼神も感動するほどの歌を詠んだに違いありません。

しかし若くして亡くなってしまったのは、実に気の毒で惜しまれます。

今回、取り上げたのは、千五百番歌合せにまつわる若き女性歌人宮内卿の逸話です。

彼女の才能への称賛と、その早世への哀惜を述べている文章は、見事というしかありませんね。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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