【診断重視】人は病名がつくと少しだけ不安から抜け出せる妙な生き物なのです

ノート

診断と病名

みなさん、こんにちは、

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は病気について考えます。

コロナ禍がやっと下火になってきたかと思う間もなく、また変異株が猛威を振るっています。

発熱外来を訪れる患者の数もなかなか減りません。

ぼく自身、今年の3月にコロナに感染しました。

7回もワクチンをうった末の話でした。

最初は我が身を疑いました。

毎日、きちんと手洗いをし、マスクをしていたのです。

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それでもかかってしまうのかというのが、その時の正直な感想です。

夜中に熱が出て、のどが痛くなり、まさかとは思いました。

すぐに解熱剤を飲んだのです。

しかししばらくすると、再び熱が上がってきます。

翌日は仕事をやすみ、はじめて発熱外来を訪れました。

扉を開けるとパーテーションに区切られた待合室が見えたのです。

熱を測ってから、すぐに診察です。

抗体検査の結果、陽性が告げられました。

そのまま、薬局へ。

待たされたのはビルの中ではなく、外に並べられたパイプ椅子のコーナーでした。

注射をすることもなく、鎮痛剤などを処方されて、5日間ほど家の中で安静にしていました。

あの時、ぼくは確かに病名をつけられ、正式な患者になりました。

診断される前は、なにものでもない高熱を発する、ただの人間だったのです。

社会的認知ということでいえば、まさにこの瞬間から正式なコロナ患者になったと言えます。

保健所のデータにも登録されたのでしょう。

職場に連絡すると、すぐに5日間の出勤停止になりました。

これが現代の病気認知のシステムなのだということを、実感したのです。

毎日のニュースでみていた他人事が、自分の上にふりかかった瞬間でした。

今回は病名が与えられることの意味を少し考えてみます。

参考にした出典は歴史学者で病理史学者、立川昭二氏の『見える死、見えない死』です。

本文

もともと病はどのようにして病となるのか。

それが病であると自分あるいは周囲が意識し、認識する。

病識を持つことによって始まる。

日常とは異なる、あるいは他者とは異なる心身のある生理的な現象や感覚を意識し、認識すること、つまりそれを意味づけることに始まる。

そして人間の意味づけの営みがほとんど言葉の使用に支えられているように、病もまず体や心

に現れる変化や感じ、つまり症状や病態について表現する言葉が探し求められる。

たとえば、熱がある、吐く、咳が出る、膿むなどなど、主として視覚、聴覚、触覚に与える変化、とりわけ痛覚に訴える異常が言語表現されていく。

しかしそれが病気としてはっきり位置づけられるのは、その変化なり異常なりが命名されるこ

と、つまり病名が与えられること、たとえば「眠れない」が「不眠症」となり「胃の具合が悪い」が「慢性胃炎」となる。

はじめて社会における共通認識の病気になるのである。

ちなみにさいきん社会問題となっている「いじめ」も、昔からあった「いじめる」ではなく

「いじめ」と名詞で病名化されたことこそ、今日の人々がそれを「社会病理」として共通認識としている証拠といえる。

近代西洋医学に基づく現代医療の中心は診断学である。

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診断とはつまり病名をつけることである。

この診断重視の思想はとりわけ特定病因説に根ざしている。

これに対し東洋医学は病名よりも症状を重視し、したがって全体的医療ともいえるが、それが

現代人の病名志向に応えられない弱みともなっている。

私たちはがんと診断され、つまり病名を与えられて、あらゆる意味においてがんになるのである。

病名が与えられない時は、病理学的にはがんであっても、あらゆる意味においてがんとは言えない。

例えば 古代エジプトにもがんがあったことが知られているが、がんという病名を知らない古代

エジプト人は、今日と同じ意味でがんにかかっていたとはいえない。

風邪などは知らないうちに経過することがよくある。

もしその時、医者が風邪と診断されると風邪という病気になる。

また僻地の村などでは最近病気が多くなったという。

それは村の奥まで健診車が入り込み、今まであまり気に留めないまま過ごしていたことにも

高血圧症とか動脈硬化症などという立派な病名がつけられたことによると言われている。

人は病そのものを病むとともに、病名という病も病むのである。

唯名論と唯物論

この話はつきつめていくと、この2つの思想にぶつかりますね。

つまり、モノがあるから名前があるのか。

名前があるからモノが存在するのかということです。

モノは当然認識されなければなりません。

赤ん坊の行動をみればよくわかります。

なんでも手にとり、舐めたりながめたりしています。

全てがはじめての出会いなのです。

世界はその子供の前に突然ひらけたカオスそのものです。

それを峻別し、分けていく作業のひとつが命名です。

ママとパパの区別もそうですね。

その瞬間から、別の存在として認識されるのです。

そう考えると、病気があるのか、病名があるのかも似たような関係とも言えます。

それまで具合が悪いでまとめられていたものが、細かく区分けされていきます。

「不定愁訴」という響きは便利ですが、実はそれぞれにはつけられるべき、病名があるに違いないのです。

多くの人が、いや、あるべきだと考えています。

このことをどう理解すればいいのでしょうか。

時代と社会

病気観は明らかに時代と社会によって、大きく変化してきました。

かつては「がん」という病気は知られていなかったのです。

かつて「がん」という死因はありませんでした。

それが現代ではどうでしょう。

身体の深部まで診断する技術ができました。

手術も可能です。

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がんの種類もそれと比例して、格段に増えました。

つまり病名が日々、増産されているといっても過言ではないのです。

逆にいえば、病名がつかない病気はあってはならないというところにまで追い詰められています。

東洋医学の持つ人間全体をひとつの器官としてみる、という人間観とは全く違うものです。

どちらがいいのかという話ではなく、そこまで現代医療は追い詰められていると考えてもいいのではないでしょうか。

かつての人間的な温かみを感じさせる病名はすでにありません。

「中風」「腎虚」「疝気」などといってもだれもわからないのです。

メスと薬であらゆる病気に名前をつけ、人体の最深部にまで分け入っていくという医療の姿に一抹の寂しさを感じるという人がいても、不思議ではありません。

非人間的でありすぎてはいけないとなると、人間的な温かみも同時に持つ医療とはどのような

ものであるのかということも考えてみる必要があります。

自分自身の場合を思いだし、少し考えてみてください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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