読書の楽しみ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は「読書」の楽しみについて考えます。
本当のところ、本を読むのはちょっと面倒ですね。
目は疲れるし、時間もとられます。
最近は電車に乗っていても、本を読んでいる人の姿をほとんど見かけなくなりました。
以前なら、すぐ文庫本を手にとっていた人も、今はスマホです。
8割くらいの人が、みんなあの小さな画面を覗き込んでいます。
いったいどうしたんでしょう。
確かに便利な道具ではあります。
しかしあまりにも普及しすぎて、怖いくらいです。
あれだけ、本を読んでいた人たちはどこへ行ったのでしょうか。
多くの人は、1月に何冊の本を読んでいるのか。
これもよくわかりません。
最初に言いたいのは、本屋さんが半減したことです。
いわゆる町の本屋さんの存在が消えてなくなってしまいました。
残っているのは駅にあるチェーンの書店だけです。
雑誌の類いもかなり消えました。
週刊誌も今や、数社だけが元気で残っているだけです。
週刊朝日が終刊した時は、ついにそんな時代がきたかと妙な感慨を持ちました。
今、本を読んでいるのは、相当に意志の強い人だけです。
参考文献をいくら紹介しても、手にとろうとしない学生が多いのが実態です。
高校の国語も今年の2年生から『論理国語』と『文学国語』にわかれました。
どちらかといえば、『文学国語』を扱わない学校の方が多いようです。
入試には論理的な評論文などが、多く出ますのでね。
ここのところ、このブログでも意識して『文学国語』の教材を取り上げています。
特に文学の言葉について考えてみることは、意味があると感じているからです。
あなたは作家の朝吹真理子氏を御存知ですか。
よほど関心がなれば、読んだことはないでしょうね。
今から10年ほど前に『きことわ』というタイトルの小説で、芥川賞を受賞しました。
作風が独得なので、多くの読者を獲得するタイプの作家ではありません。
彼女のエッセイが『文学国語』の教科書に載っていました。
ご紹介しましょう。
本文
本を読んでいると空間はことばだけになる。
読書をしているとどこまでも自由になる。
身体が消え、心も消え、ただことばだけになる。
そのことばを誤読することも、許されている。
本を読みはじめることも、本を読みさしのまま放ることも、できる。
持ち歩きつづけて、背表紙はよれ、糸がきれて紙がばらばらになった本。
何度もページをひらいているけれど、いつまでも読み終えることができない本もある。
最後に置かれた句点をみたあと、もう一度はじめから読み返してしまう。
永遠にこの本だけを読みつづけるのではないかと思ったりする。(中略)
本をひらくと路がふえる。
散歩に出るとき、旅行に行くとき、かならず本を携えている。
道標というよりも、路にたくさん迷うために、本を携えているのかもしれない。
歩きながら読んだりしまったりできるようポケットに本をいれておく。
だから自然と文庫本が多くなる。
もし、うっかり電車に置き忘れても、また買おう、とあきらめがつく。
旅先で何度も買うから、同じ文庫本が何冊も本棚に並んでいる。
どの旅行のときに持っていたのかを、ページのはしばしにひかれた傍線の、鉛筆の濃淡で、思い出したりする。
いっしょに旅をした本は、ページをひらいただけで、たしかにあの日に読んでいたという実感がある。
書かれてあったことばと記憶が、からまりとけあい、学問として「読む」ときとはまったくちがう、ひたすら幸福な、たったひとりだけの、実感がある。
ひらがなの多い文章
読書好きの人なら、この文章を読んだ時、共感する部分がかなりあるのではないでしょうか。
人は迷いたいのかもしれません。
言葉をかえれば、酩酊したいのです。
その助けになるのが、本を読むという行為です。
できたらひたすら幸福になれるような、時間のたつのを忘れてしまうような作品に出合うことです。
もちろん、人によって、その作品は違います。
しかしすぐれた小説やエッセイは、必ず時間のたつのを忘れさせてくれるのです。
懐かしい場所へつれていってくれます。
今までに辿り着いたことのない風景をみせてくれるのです。
迷路を歩いているのと同じかもしれません。
時間も空間も、全て飛び越して、あなたが行きたかった場所へ誘ってくれるワケです。
この文章を読んでいると、「ひらがな」の多いことに驚かされます。
柔らかい印象の文章ですね。
素手で軽くなでられているような、心地よさを感じます。
彼女にとって最も大切な要素は、いつも時間なのです。
過去と現在が入り混じった場所に辿り着きたい人なのでは、と思わせます。
きことわ
このタイトルの小説を読んだことがある人は、どれくらいいるのでしょうか。
ぼく自身、今回この記事を書くことがなければ、読まなかったです。
全く関心がありませんでした。
2011年に発表された小説です。
不思議な題名ですね。
読んでみないと、なぜこんなタイトルなのかわかりません。
筋はほとんどないのです。
子供のころに葉山の別荘で夏を一緒に過ごした、貴子と永遠子が25年後に再会するという話です。
「きこ」と「とわこ」が一緒になって「きことわ」なのです。
何が書かれているのかといえば、なにも書かれてはいないような気もします。
心象風景の連続です。
しかしストーリーが全くないというワケではないのです。
厳密にいえば、この2人の登場人物は小説を進行させるためのパラメーターです。
つまり狂言回しです。
ひょっとすると、他の生き物でもよかったのかもしれません。
本当の主人公は「時間」です。
小説を読みこんでいくと、この話はいつのことだったのかとわからくなってしまう時があります。
つまり虚実の皮膜の中を行ったり来たりしているのです。
何となく懐かしい風景の中で、うごめくというのでしょうか。
「永遠子は夢をみる。貴子は夢をみない。」というのが書き出しです。
もう1つのテーマは「夢」です。
「昔の記憶」としての夢なのです。
時間にリンクした「夢」と考えればわかりやすいかもしれません。
「夢」は日常の裏返しです。
遠い事象ではありません。
自分の言葉でどこまで遠くへ行けるのか。
それをひたすら試みた小説だ、と考えればいいのではないでしょうか。
時間があったら、ぜひ手にとってみてください。
不思議な懐かしさを伴う読後感にひたれます。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。