三顧の礼
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『三国志』について学びましょう。
中国4000年の歴史に比べれば、わずかな期間ですが、登場人物には魅力がたくさんあります。
『三国志演義』としてよく知られていますね。
日本でも吉川英治をはじめとして北方謙三、司馬遼太郎など多くの作家が書きました。
最近では宮城谷昌光の小説が人気です。
もちろんテレビドラマにも映画にもなっています。
NHKはかつて辻村ジュサブロー製作による人形劇を放送しました。
横山光輝原作の60巻からなる、漫画を読んだ人もたくさんいるのではないでしょうか。
なぜこれほどに多くの人を魅了するのか。
ストーリーの壮大な迫力もあります。
しかしそれ以上に登場人物に魅力があるのです。
劉備、関羽、張飛の3人に加え、軍師として活躍した諸葛孔明を忘れてはいけません。
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中国全土をつねに視野におき、戦いの方向を冷静に見て取りました。
武闘派だった関羽、張飛に比べて、孔明はつねに知力をフル回転し、諸将の出方を冷静に判断しました。
また気象学などにも通じていたため、雨、風の向きから戦いの方法を選ぶ能力も持っていたのです。
初めて、劉備が孔明に出会ったのは、まだ孔明が20代の頃です。
彼を軍師として招くため、劉備は3度も孔明の家を訪ねました。
失礼がないように敬愛の念をこめて、招いたのです。
三国志が始まるのはまさにこの時からと言っていいでしょう。
「三顧の礼」という表現は、今でも多くの人が使います。
会社も組織も全ての力は人間そのものから発します。
人材があらゆる力の源泉です。
その基本中の基本が示されているという意味で、本当にいい言葉ですね。
「三顧の礼」本文
瑯琊(ろうや)の諸葛亮(しょかつりょう)、襄陽(じょうよう)の隆中に寓居す。
毎(つね)に自ら管仲・楽毅に比す。
備、士を司馬徽(しばき)に訪(と)ふ。
徽曰く「時務を識る者は俊傑に在り。此の間、自ら伏龍(ふくりょう)・鳳雛(ほうすう)有り。
諸葛孔明・龐士元(ほうしげん)なり」と。
徐庶(じょしょ)も亦た備に謂ひて曰く「諸葛孔明は臥龍なり」と。
備、三たび往きて乃ち亮を見るを得、策を問ふ。
亮曰く「操、百万の衆を擁し、天子を挟(さしはさ)みて諸侯に令す。
此れ誠に与(とも)に鋒を争ふべからず。
孫権、江東を拠有し、国、険にして民附く。
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与(とも)に援(えん)と為すべくして、図るべからず。
荊州は武を用うるの国、益州は険塞(けんそく)にして沃野千里、天府の土なり。
もし荊・益を跨有(こゆう)して其の巌阻(がんそ)を保ち、天下に変有らば荊州の軍は宛(えん)・洛に向かひ益州の衆は秦川(しんせん)に出でなば、
孰(たれ)か、箪食壺漿(たんしこしょう)して以て将軍を迎へざらんや」と。
備曰く「善し」と。
亮と情好、日に密なり。
曰く「孤の孔明有るは、猶(な)ほ魚の水有るがごとし」と。
現代語訳
瑯琊の諸葛亮は、襄陽の隆中山に仮住まいをしていました。
いつも自分を管仲や燕の楽毅になぞらえていたのです。
ある日、劉備が当代のすぐれた人物を司馬徽に尋ねました。
すると徽は
「時局に応ずる仕事を知って、これを処理し得る者は、
よほどの大人物でなければなりません。
このあたりに自然と伏龍・鳳雛ともいうべき大人物が二人おります。
諸葛孔明と龐士元です」と言いました。
徐庶もまた劉備に、「諸葛孔明は臥龍です。
ひとたび起ちあがれば、必ず世を驚かす偉業をなすでしょう」と言いました。
そこで劉備は三たび足を運んでやっと亮に合うことができ、漢室復興の計を問うたのです。
亮は、「曹操は百万の軍勢をかかえ、天子を奉じて諸侯に号令を下しています。
この勢いでは操と兵を交えてはいけません。
孫権は江東に土地をかまえて、その国は険阻で、人民は良くなついていますから、
同盟を結び、共に助け合うのはよろしいけれど、その国を征服しようと図ってはだめです。
荊州は兵を動かすのには便利な国で、益州は天険をもって四方を取り囲まれ、沃野は千里も広々と続き、天然の宝庫ともいうべき地であります。
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将軍がもしこの荊州と益州を併せて領有なさり、その要害を保ち、天下に変事あった時は
、荊州の軍隊は苑・洛の両地に向かい、益州の軍隊は秦川の地方に打って出るようにされたならば、
天下の人民は誰もが飲食物を用意して、将軍をお迎えするに違いありません」と申し上げました。
劉備は「それはよい計略だ」と喜びました。
このようにして諸葛亮との交情が日ましに親密を加えていったのです。
劉備が言うには、「自分にとって孔明があるのは、あたかも魚に水があるようなものである」ということでした。
(注) 劉備玄徳(りゅうびげんとく、161年~223年、在位221年~223年)。中国、後漢末から三国時代にかけての武将。蜀の初代皇帝。
臥龍・鳳雛
故事を覚えていると、現実の出来事にはまる時があるものです。
「三顧の礼」も「水魚の交わり」ともに、ぜひ覚えておいてほしい表現ですね。
当時、劉備は名を知られた英傑でした。
しかし諸葛亮はまだ無名そのものだったのです。
20歳も年齢が下の諸葛孔明に会うため、劉備はよく3回もたずねたものです。
そのうちの1回などは昼寝中でした。
しかし起こしてはならないと思い、引き返したのです。
目上の人が心を尽くして目下の人にお願いをするという意味でも、現代に通じる重みのある内容だと感じます。
劉備にはどこか不思議な魅力があります。
司馬遼太郎はそれを「空洞」のようなものだと表現しています。
自然に人が寄ってくる。
人物鑑定家として知られた司馬徽と会った時に、力になってくれる人物はいないかと訊ねました。
その時、すると司馬徽は「臥龍・鳳雛」と呼ばれる2人の男を紹介してくれました。
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臥龍は文字通り「眠れる龍」、鳳雛は「鳳凰の雛」を意味します。
それが「諸葛孔明と龐士元」だったのです。
どうしても孔明に会いたかった劉備は、ある知人にどうしたら軍師として迎えられるかを聞きます。
こちらから訊ねなさいということでした。
諸葛亮はさまざまな知恵を彼に与えてくれます。
曹操は強大で対等に戦える相手ではないので、江東の孫権を味方につけ、経済力のある荊州を抑え、さらに肥沃な益州を得て勢力を築けと教えます。
さらに孫権とともに戦えば、曹操に勝つことも可能となるというのです。
赤壁の戦いはまさにそうした背景で行われました。
208年、天下統一を目指して南下した曹操軍を、孫権・劉備連合軍が迎え撃ったのです。
黄河中流の水軍戦で、連合軍が勝利しました。
その結果、天下三分の形勢が固定化され、魏・呉・蜀の三国時代へ向けて動いていきました。
関羽や張飛の2人は、最初、孔明にいい感情を持っていなかったと言われています。
しかし彼り知略には脱帽せざるを得なかったのです。
人間を求めることが、最後には大きな成果を得るという、典型的な話です。
チャンスがあったら、彼らの登場する作品を手にとってみてください。
そのスケールの大きさに目を見張るはずです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。