実在論と唯名論
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は哲学の根本的な考え方について、少し頭を悩ませてみましょう。
よく言われることです。
実在論と唯名論の違いは何かということです。
この表現を聞いたことがありますね。
ただしきちんと学んだことはないかもしれません。
大学の哲学科などへいくと、このようなことを1年中、考えているワケです。
暇といえば、暇ですけどね。
非常に大切で根本的な考え方です。
何かの概念を「偶然貼りついていただけの名前」とみるのが唯名論の立場です。
その反対に「それらしい本質があるから生まれた必然の概念」と考えるのが実在論なのです。
個々の具体的な人間やイヌやバラがそこにあると考えるのが唯名論です。
これに対して実在論は「バラ」というものとか「ネコ」というものといった類の概念が必ず実在すると考えます。
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実在論は名前があるのならば、そのものは存在すると考えです。
その反対に唯名論というのは名前というのは概念的なものにすぎないという考え方なのです。
少しわかってくれたでしょうか
話をさらにわかりやすくしましょう。
よくブランド信者と呼ばれる人の話を聞きます。
ぼくにはまったく区別がつきませんが、見る人がみればすぐにわかるのでしょうね。
たとえば、シャネル、グッチ、エルメスだというブランドの商品が目の前にあったとします。
すると、たいていの人はブランド名を言われた瞬間に、これは高価でいい品物だと思い込んでしまいがちです。
値段も高いですからね。
素人には品物を実際にみても、なかなか本物か偽物かなどとはわからないものです。
だからこそ、その品物が持っているブランドイメージに左右されます。
まさにブランドという概念に価値観が左右されているのです。
これが実在論の世界です。
ブランドの威力
逆にいえば、ブランドの側は、イメージの戦略に余念がありません。
立地のいい場所におしゃれな店をかまえ、従業員の教育もしっかりやります。
言葉遣いなどもきちんとしているのです。
雰囲気のある内装の店内には、静かでエレガントな時間が流れています。
お客はそこへ出かけることそのものが、すでに彼らの戦略に取り込まれていることを知っています。
それでも心地よさにひたりたいというニーズがあるのです。
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だからこそ、自分が持っているブランド品に偽物があったりすることは許されません。
企業側も必死になって粗悪品を追放します。
商品が売れない時も、他店に安く流すなどということは絶対にありません。
最悪の場合は密かに焼却してしまうことすらあります。
希少であることがブランドの価値を高めることをよく知っているからです。
まさに実在論の世界なのです。
消費者は、ある意味で共同幻想の中に入ることの喜びを知っている人だけです。
それがブランドを守るということの意味なのです。
ところがこれがあまりに行き過ぎると、もう1つの限界に達してしまいます。
それが偽物の横行です。
過去の例
1980年代に話題になったのが日本橋三越での事件でした。
「古代ペルシア秘宝展」が開催され、数億円の値で販売されていた作品のほとんどが贋作だったと判明したのです。
1982年、三越は創業310年を記念した「古代ペルシア秘宝展」を開催しました。
展示会場には総額数十億円にものぼる宝物が展示されたのです。
多くの招待客が呼ばれ、事前に鑑賞しました。
マスコミも特集を組み、別冊の立派な書籍まで出版しました。
誰もが三越という老舗デパートの名前と、新聞社の名前に踊らされたのです。
有名な作家や画家などの批評もマスコミに流れました。
ところが美術展の開催2日目に、1人の男性客が贋作を見つけ出しました。
その男性が古美術商の依頼で作った作品だったのです。
作家の松本清張なども内覧会のおりに、いろいろとおかしな点があることを指摘していました。
この事件は暗躍した2人の人物の名前とともに、いまだに記憶に残っています。
このケースは何が問題なのでしょうか。
まさに「である」ことから抜け出そうとしていないところにあります。
三越という信頼のおける商標であるということだけで、そこから先の地平へ抜け出そうとしなかったというのが原因なのです。
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あなたはパイプをくわえて安楽椅子に座っている人の姿を連想したことがありますか。
政治思想学者、丸山眞男氏の『であることとすること』の中に叙述されています。
この記事は過去に書いたブログにあります。
最後のところにリンクを貼っておきましょう。
極端なことをいえば、そのうまみを知っているからこそ、偽物を次々と製造して、平気で売っている人たちもいるのです。
彼らには「実在論」の意味などもちろん必要ないでしょう。
それでは近代の合理主義はどの方向に進んでいるのか。
もう少し考えてみましょう。
質を保つ
近代は「する」時代です。
自分にはこれだけの権利があると言って、のんびりしていれば、それは次々と剥奪されかねません。
選挙権しかり、公民権しかりです。
生存権さえ、危ういでしょう。
丸山眞男氏の評論の切れ味は、存在論から唯名論への転換点に書かれたというところにあります。
やはり何であるかではなく、何ができるかで決めなくてはならない時代に入ったのです。
有名な創業者の御曹司であるというのは「である」価値です。
しかしそれだけで生き残れる時代ではなくなりました。
たまたま御曹司という名前が貼りついていたから、という実在論だけでは先へ進めません。
個々の具体的な人間に真の価値があるのかどうかという論点が必要でしょう。
一般論としてのイヌやバラという概念があるわけではありません。
そこには個別の資質をもったそれぞれの個体が存在するだけなのです。
西欧では、理性が次第に信仰から独立していきました。
それと並行するように、唯名論が優勢となっていったのです。
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人間は弱い生き物です。
なるべく強い武器を持ち、堅い鎧を身につけたいと考えても不思議ではありません。
その1つがブランドであるということもあり得ます。
生きていくために、より意味のある価値を身につけること。
学歴などもまさにその1つかもしれません。
何を学んだのではなく、より優位な学校歴を得ようとする。
それだけ生きていけるほど、今は単純な時代ではありません。
この考え方は勉強は何のためにすればいいのかという、遠大なテーマにも結び付きます。
哲学の話から入りましたが、結論は人間臭いところに近づいてしまいました。
近代を問い直す視点を、2つの考え方から探っていくという方法もあることを知って欲しかったのです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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