小説が消える
みなさん、こんちには。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
まもなく新学期です。
入学式の季節です。
いいものですね。
希望と不安が交錯するシーズンです。
今年は何年生のどの授業を持つのかというのがこの時期の楽しみでもありました。
ぼくは殊に現代文の授業が好きでしたね。
生徒に教えるというより、もっぱら自分自身が勉強させてもらったのです。
考えてみれば、教師というのは本当に不思議な仕事です。
授業をしながら、自分が1番学ばせてもらうのです。
きちんと理解していないと、とても相手に教えられるものではありません。
もちろんある程度の技術があれば、その場をしのぐことはできます。
しかし本当の意味では教えられないのです。
生徒の目をみればそれはすぐにわかります。
自分の言葉が相手の胸にささっている時は、実に澄んだいい目をしています。
その反対が本当に死んだマグロのような目です。
これが居並んだ時は、本当に悲しいです。
芸人が今日は負けたといって舞台をおりてくるのと同じです。
どこもかわりません。
それくらい人の気配というのは真実を伝えます。
現代文の内容は小説にしろ、評論にしろ大変に難しいものが多いです。
とくに学年が上がっていくにつれ、人間の内面に切り込むものが増えます。
それまでに考えたこともない現実を突きつけられ、生徒は慌てます。
その時の反応が1番大切なのかもしれません。
新カリキュラム
近々、高校のカリキュラムが大きく変更されます。
新しい時代に対応したものです。
基本はそれほど変化しません。
1年生はほぼ今までと同じではないでしょうか。
問題は2年生から。
「論理国語」と「文学国語」に分かれるのです。
標準単位が週4時間ですから、2科目とも履修する学校はほぼありません。
いくら受験校だからといって、現代文を週に8時間やるところはあまりありません。
その他に古典もありますからね。
そうなると、どうしてもこの2科目のどちらかをとらざるを得ないのです。
「文学国語」を履修する学校は減るでしょうね。
感性を豊かにするという意味では重要性を持っています。
しかし入試に対応しているのかといえば、疑問符もつきます。
これも時代の流れでしょうか。
世の中は論理性重視の時代です。
今年から始まった大学入学共通テストなどをみると、改革の傾向が見えてきます。
感性に訴えた小説の読み取りよりも、議論を発展させる問題文の出る可能性の方が高いのです。
正解を理詰めで読み解く能力の開発です。
当然のことながら「論理国語」が前面に出てくるでしょうね。
複雑な人間の内側をえぐるような文学作品を読む機会は、ますます減ることと思います。
なんといっても入試に対応していない教育は、時代のニーズに合致していません。
それが現代の潮流なのです。
いつまでも感性を重視しようなどといってもいられないワケです。
グローバル時代
時代はまさに論理性重視の嵐の中です。
グローバル時代を乗り切れる論理構成力をもった生徒を、作り上げなければなりません。
多くの授業は、評論を中心としたものになっていくでしょう。
この流れを押しとどめていくことはできません。
2030年度までの完成を目標としているSDGs(接続可能な開発目標)をとりあげてみれば、そのことはよくわかります。
1番の基本は飢餓と貧困の是正です。
世界が必要としている喫緊のテーマです。
そのために何が必要となるのか。
世界の人が一堂に会して議論を行うことができる力を、持たなければなりません。
狭い島国の中で他人の顔色を見ながら、沈黙を続けるような人々はいらないのです。
積極的に自分の意見をきちんとした整合性とともに語れる人。
文章の書ける人。
そうした人間をいち早く育成しなければならないところにきています。
そのために必要な国語力を、授業で養わなければならないのです。
日本的な感性を知ることも、アイデンティティの確立には当然必要です。
しかしそれ以上にグローバルな視点をもった、できれば英語の堪能な人間が欲しいのです。
2022年度実施の新カリキュラムは、そうした要請の元に生まれました。
設置科目は以下の通りです。
必履修科目 現代の国語(2) 言語文化(2)
選択科目 論理国語(4) 国語表現(4)
文学国語(4) 古典探求(4)
論理国語への傾斜
現在1年で学習されている「国語総合」が、まさに必履修科目の「現代の国語」「言語文化」にあたるのでしょう。
文学的な教材も多く中に収められると思われます。
問題は2年生から後です。
選択科目については、大学進学者の多い高校では、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」(各4単位)のうちから2科目を履修するのが一般的になるでしょう。
流れとしては「論理国語」が中心になるでしょうね。
結果的に「文学国語」は消去されます。
何の教材が扱えなくなるのか。
現在は2、3年で漱石『こころ』、鴎外『舞姫』などの重厚な作品を取り上げています。
これが全くなくなる可能性もあります。
おそらく読者数は確実に減るでしょう。
とくに明治の文豪とよばれたこの2人の作品は学校を離れれば、もう読む機会は少なくなるのが目に見えています。
最近、新聞の読書欄に、このことに対する懸念がよく取り上げられています。
いよいよ新カリキュラムがスタートする時期になりました。
文科省の焦りも理解できます。
経済や産業の分野から使える人間を早急に育ててほしいといわれれば、それも止むを得ない面があります。
しかし本当にそれでいいのかどうか。
小論文の添削指導を長くしていると、書く力が確実に弱く細くなっているのを感じます。
感性の充実と論理性の涵養は、かならずしも反比例するものではないのではないでしょうか。
しばらくの間、この流れを注視しなくてはなりません。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。