【小論文・日本の教育システム】グローバル化時代の新機軸は何か

小論文

新時代への備え

みなさん、こんにちは。

小論文添削歴20年の元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は新しい時代に対応した教育のあり方について考えます。

日本の教育システムがグローバル化の時代に適していると考えている人はそう多くないはずです。

大学入学共通テストなどの改革をみていると、それは明らかです。

かつてのように「読み書く」という能力から「聞く話す」に重点をシフトしつつあります。

グローバル化した世界を相手に自分の意見を発信できる人間が必要になっているのです。

他者を説得できるだけの論理を構築できる人材の育成です。

そのための教育が喫緊のテーマになりつつあるのです。

以前、米原万里氏のエッセイを課題文として出題した大学がありました。

彼女のことをご存知でしょうか。

2006年に亡くなりましたが、ロシア語の翻訳者で同時通訳者としても有名な人でした

作家としても活躍されました。

彼女が日本に戻ってきて1番驚いたことは、日本の教育があまりに学問的ではないということでした。

知識をたくさん持ってはいるものの、相互の関連性が希薄だったのです。

それぞれの内容が体系化されていないので、せっかくの学問があまり意味を持ちません。

日本人はいったいなんのために勉強をしているのか。

文章はかなり辛辣です。

教育観の違いについて感じた通りのことを述べています。

ポイントだけを抜きだしてみましょう。

ただ暗記だけをして、年号を覚えて何の役に立つのか。

そんなことより相互の事件の関係がみえていなければダメだというのです。

課題文本文

それまで5年間通っていたプラハの学校では、論文提出か口頭試問という形での知識の試され方しかして
いなかったのだ。

「鎌倉幕府が成立した経済的背景について述べよ」

「京都ではなく鎌倉に幕府を置いた理由を考察せよ」

というようなかなり大雑把な設問に対して、限られた時間内に獲得した知識を総動員して書面であれ口
調であれ、ひとまとまりの考えを、他人に理解できる文章に構築して伝えなくてはならなかった。

1つ1つの知識の断片はあくまでもお互いに連なり合う文脈を成しており、その中でこそ意味を持つものだった。

ところが、日本の学校に帰ったとたんに、知識は切れ切れバラバラに腑分けされても丸暗記するよう奨励されるのである。

これこそが客観的知識であるというのだ。

その知識や単語が全体の中でどんな位置を占めるかについては問われない。

これは辛かった。苦痛だった。

記憶は記憶されるべき物事と他の物事、とくに記憶する主体との関係が緊密であればあるほど強固になるはずなのに、単語と単語のあいだの、そして自分との関係性を極力排除した上で覚え込むことを求められるのだ。

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設問は以下の通りです。

問1 著者は日本の教育方法をどのように考えているのか。200字以内で要約しなさい

問2 筆者の主張に対して、あなた自身の考えを800字以内で論述しなさい

ポイントは〇×式の教育が破産しつつあるという現実です。

知識をどれだけ暗記したのかという競争だけでは新しい時代を切り拓けないということでしょう。

知識偏重主義の行方

前段に据え付けられたのが、プログラミングや英会話学習などです。

それで知識偏重主義はなくなったのでしょうか。

この問題の核心はそれほど単純なものではありません。

最初に筆者の論点に対する賛否を考えてみます。

一般論で追いかけるとただ現在の教育に不満を述べているだけになってしまうかもしれません。

十分に注意して論点を整理する必要があります。

キーワードは知識の体系化です。

日本式の教育では知識が細切れにされ、全体の中での位置がみえにくいという指摘がなされています。

それをどのようにしたら関係性をつけ、他者を説得するところまで持っていけるのか。

そのために必要な学習方法とはどのようなものなのか。

筆者の意見に全面的に賛成するのは簡単です。

だいたいの流れはエッセイの課題文で理解できますね。

全くその通りだという趣旨で文章を書いてもあまり高い評価はされないでしょう。

それだけでは日本の教育が全てダメで、考える余地もないということになってしまいます。

こういう雑な論点はNGです。

だからといって「個性」や「ゆとり」ばかりを前面に出したことで、教育水準が下がってしまったことも事実です。

もちろん、日本人もそれらを黙って見過ごしてきたワケではありません。

その間にもさまざまな波があり、可能なことは次々と手をうってきたのが実情なのです。

それでもなかなかうまくいかない。

ここに問題の難しさがあります。

評価の方法

もう1つの大きな変化は評価の在り方です。

絶対評価の導入で大きく教育現場の対応は変化しました。

確かに相対評価のマイナス点はかなり改善されつつあります。

かつては1クラスの評価があらかじめ決まっていました。

その割合に応じて5段階評価を分布させていたのです。

いくら頑張っても他にできる生徒がいたら、評価は上がりません。

ではその悪弊を廃止することができたのでしょうか。

現場にいると、相対評価の根は想像以上に深いというのが実感です。

どうしてもクラス平均などの数字に引っ張られる傾向があります。

受験という現実の前で、業者の提供する数字に左右されがちなのです。

学校間格差がある限り、当然のように偏差値に輪切りにされた状態で学校が孤立していきます。

その時に必要なのが、絶対評価ではなく相対評価なのです。

やはりここでも暗記を中心とした教育は続いています。

一見、解法を新しく考えているように見える授業でも、ある程度の基礎的なパターンを繰り返す日本式の授業が消えているワケではありません。

必要なのは小手先の技術論ではありません。

本当の学力とはなんであるのかというテーマが根本でしょう。

まさに人間観に基づく論点です。

これからの時代にどのような教育が必要となるのか。

それをとことん追求して欲しいです。

自分が受けた授業の中で、こうした点を改善してほしいとか、こうであったらもっとよかったなどということを書き込んでいくことも可能です。

あらゆる方向から内容を切っていく形で文章を進めてください。

人間の数だけ教育の形はあるのです。

それだけに理想の型も様々です。

自分の体験を踏まえつつ、これからの時代に対応した教育のシステムについて十分に検討してもらいたいと思います。

今回も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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