世間の原理
みなさん、こんにちは。
小論文添削歴20年の元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はかつて上智大学の総合人間科で出題された「世間といじめ」について考えます。
従来は教育論からの出題が中心でしたが、最近は社会論なども出題されています。
今回の出典は佐藤直樹著『世間の現象学』です。
法学者で「世間学」という新しい論点を確立した研究者の1人です。
世間というのは誰もがよく使う表現です。
しかしその実態を正確に把握している人は、それほど多くありません。
そんなことは世間が許さないという言い方を大人はよくします。
実際、その世間がどういう実質を持っているのか。
そこまであまり考えずに使っているケースが大半なのではないでしょうか。
特に昨年からのコロナ禍で、世間という言葉がかなりクローズアップされました。
その代表が「同調圧力」という表現です。
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諸外国と比べて、日本では断然この圧力が強いということは以前からも言われていました。
それが今回のコロナウィルス蔓延でより明確になったとも言えます。
自粛警察などという言葉もうまれ、自発的な活動と称する人々が先頭にたって行動しました。
「みんな違ってみんないいという」というフレーズの持つ優しさとは正反対の厳しい活動ぶりでした。
それが原因で辞職や自殺にまで至るといういたましい報告も寄せられています。
佐藤氏は最近も演出家、鴻上尚史との共著『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』
(講談社現代新書)を上梓しました。
まさに「世間」が我が物顔に跋扈している現状を憂えたのです。
日本人の中にある意識の根源には何があるのか。
それを明らかにする意味でも、このテーマは意味があると思います。
出題された課題文はかなり長いので、ここにその抜粋を掲載します。
課題文抜粋
「世間」というのは贈与・互酬の関係がもとになっているので、「モノをあげる」という
行為が、相手にある心理的負担や返礼の義務を負わし、そのことで人間関係を円滑にさせ
る重要な役割を果たしているのだ。
もらったことにたいしてかならず「お返し」をしなければならないと私たちが思ってしま
うのは、このためである。
ときにはそれが対人恐怖のようにきわめて強迫的なところにまでいたってしまう。
こんなふうにして「世間」は私達の行動を決定する原理としてはたらいている。
意外に思われるかもしれないが、実は日本にあるような「世間」は現在の西欧には存在しない。
ずっと昔にはあったのだがある時期になくなって社会と呼ばれるものに変わってしまったのだ。(中略)
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考えてもみれば、日本の明治以来の「近代化」もまた、この種の錯覚におおわれていて、私たちは「世間」をみないようにして社会という空中楼閣のようなところに哲学や思想をつくりあげてきたといえるかもしれない。
現在にいたってもわが国でも契約関係を基礎とする社会はさっぱり定着していないが、贈
与・互酬の関係を基礎とする「世間」はあいかわらず強固に存在しつづけていると考えら
れる。(中略)
基本的に物をもらったら返す。
対等な関係にある人物の場合は、同じような価値のものを返す関係だといっていいと思う。(中略)
物のやりとりがある種の節度を持って行われていて、それが人間の評価とかかわっている
ということは、日本の世間の中で生きている人はみんな知っている。(中略)
社会はウチとソトの区別をしないが「世間」はウチとソトの区別という排他性を持つ。
「シカト」など日本の学校のいじめがきわめて特殊なのはそれが「世間」の中で生まれる差別だからである。
「世間」の中では「世間からつまはじきされたら生きてはいけない」と人々は思っている。
設問
課題文の後に設問があります。
設問1 筆者の考えを600字以内で要約しなさい。
設問2 日本の学校のいじめがきわめて特殊なのはそれが世間の中で生まれる差別だから
であるとあるが、その意味するところを600字以内で説明しなさい。
この2問です。
課題文は社会の合理性に対して、あくまでも世間の持つ非合理性に着目した文章です。
この文章は私たちが普段なにげなく感じていることを実に鮮やかに描き出しています。
社会は個人の平等に重きをおきますが、世間では長幼の序を重んじます。
そうした関係の中で日本に多く存在するといわれる「いじめ」の問題にメスを入れていこうという文章です。
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いかにも日本の風土に根ざしたテーマですね。
600字で要約しろという設問は考えようによってはかなり難しいです。
通常の200字程度に比べると長い分だけ、煩雑になりがちです。
ついあれもこれもと書いてしまうと、逆に要約になりにくくなってしまいます。
それ以前に「世間」という表現と「社会」との関係が明確に見えていないと、何を書いていいのかよくわからなくなってしまうということも考えられます。
社会はウチとソトの区別をしないのです。
そこでいじめがあるとすれば、それは個人の問題ということになります。
反対に世間はウチとソトの区別をきちんとつけます。
そこでいじめられる理由の大半は、個人が集団の内側に属していないことを示します。
このポイントをきちんと把握しておかないと、日本における「いじめ」の本質が見えてきません。
いじめの本質
この課題文は「シカト」をイメージしてまとめられています。
しかしこれだけが「いじめ」の全てだというワケではもちろんありません。
自分の見聞や体験などを通じて、書き込める内容があれば、それをテーマにして内容を広げていくことは可能です。
ただし「世間」という論点を外してしまうと、際限がなくなる危険性もあります。
このあたりがかなり難しいですね。
現代の都会では世間がむしろ背後に隠れてわかりにくいものになっています。
それだけに受験生はあまり敏感に反応できないということも考えられます。
日本はかつてのような農業社会ではありません。
高度な工業国に世間があるのかという疑問があっても不思議ではありません。
しかし非合理的な「世間」は根強くはびこっているというのがテーマの持っている底力をみせています。
最近では官吏を接待する民間の通信会社の実態が報道されました。
その近くに首相の長男が介在するだけで、役人は忖度を開始するのです。
高額の飲食をともなう接待を受ければ、当然その見返りに何もしないというワケはないのです。
それが「世間」の論理でしょう。
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当然のように利益誘導があると考えても不思議ではありません。
これがまさに法の下にある社会の構造とは違う、二重底にある世間の構図です。
その内側に入れなければ排除される。
子供のシカトと呼ばれるいじめと同じ内容です。
個人が集団の内部に属しているのかどうかという根本の問題をきちんととりあげ、その構造が、より鮮明に深く侵攻している現状を論じてください。
もちろん、他のいじめの問題をこれだけで限定的にまとめきることはできません。
小論文はあくまでも1つか2つのキーワードで進めばいいのです。
全てを網羅する必要はありません。
どこに結論を持っていくのか。
じっくり考えながら文章をまとめてください。
期待しています。
今回も最後までおつきあいいただきありがとうございました。