生涯の師
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回も魯迅の作品を取り上げます。
彼の略歴は昨日の記事に書きました。
日本に留学したことが結果的に魯迅の人生を変えたのです。
魯迅は1902年に鉱路学堂を卒業した後、他の同期生とともに官費留学生として日本に留学しました。
彼は最初、東京の弘文学院に入学します。
弘文学院は清国留学生に日本語と普通教育を授けるため新たに設けられた学校でした。
魯迅はこの学校の普通科で2年間、日本語のほか数学、理科、地理、歴史などの教育を受けたのです。
その後、1904年9月、仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学。
授業料免除の対象でした。
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医学専門学校は全国にありましたが、仙台を選んだのは、中国留学生のいない学校に行きたいという理由からだったようです。
当時の仙台は人口が約10万人で全国11番目の都市でした。
しかしこの年の2月には日露戦争が始まり、市内は戦時色に染まっていたと言われています。
そこへたった1人、中国人として医学を志し留学してきたのです。
当然、知り合いは誰もいません。
魯迅はなぜ医学を選んだのか。
その理由について彼は中国を強い国にするためと語っています。
身体が丈夫で健康であれば、多くの国に伍していけると考えたのでしよう。
そこで出会った生涯の師が藤野厳九郎だったのです。
仙台医専の課目は解剖学・組織学・生理学・化学・物理学・倫理学・ドイツ語・体操など。
藤野先生は解剖学を担当していました。
生真面目な教育者
彼の風貌をまとめた一節が小説の中にあります。
抜粋してみましょう。
藤野先生は服の着方が無頓着で、ネクタイすら忘れることがある。
冬は古外套1枚でふるえているので、ある時汽車に乗ったら車掌がスリと勘違いして乗客に用心をうながしたそうだ。
これだけでどんな人柄だったかすぐにわかりますね。
本当に根から真面目な教師だったのでしょう。
ある時、私の講義、ノートが取れますかと彼は尋ねました。
魯迅がどうにかといって見せると、先生はそれを受け取って後日返してくれました。
そこには初めから終わりまで全部朱筆で添削がしてあったのです。
抜けたところを書き加えただけでなく、文法の誤りまでことごとく訂正してありました。
骨学、血管学、神経学の授業のノートも同様でした。
先生は優しさを内に秘めるタイプの人だったのです。
魯迅は嬉しかったに違いありません。
異国の地で、その人柄の温かさが身に沁みたことでしょう。
しかししばらくして魯迅が医学から文学の道へと進む転機となった出来事がありました。
幻灯事件と名付けられています。
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彼が2年生の時のことです。
細菌学の授業が一段落した後、残りの時間に日露戦争のスライドを上映したのです。
その中の一枚が、魯迅に大きなショックを与えました。
それは、中国人がロシア軍のスパイとして捕らえられ、処刑される場面のものでした。
魯迅は、その場面の残酷さに目を見張りました。
しかしそれ以上に、その光景をぼんやりと見つめる中国人の姿に衝撃を受けたのです。
なんの抵抗もなく、ただ状況を受け入れてしまう。
これでは未来のある新しい国が建国できるはずもない。
文学の道へ
この時、中国は今のままではダメになるという確信を持ちました。
身体が丈夫てあることは勿論だが、それ以上に精神が強くなければいけないと強く感じたのです。
魯迅は、その時のことを「あのことがあって以来、私は医学など少しも大切ではない、と考えるようになった」と書いています。
文学の道に進むことを決心した彼は、藤野先生に退学の意志を伝えました。
その時の情景を、魯迅は「彼の顔には、心なしか悲哀の色が浮かんだように見えた。何か言いたそうであったが、ついに何も言わなかった」と記しています。
先生は、魯迅が仙台を立つ前に自宅に呼んで自分の写真を渡しました。
裏には「惜別藤野謹呈 周君」と書かれていたのです。
魯迅が仙台を離れたのは1906年3月のことでした。
彼は今でも中国の国民的英雄です。
その作品は世代を超えて読み継がれています。
藤野先生の人間像は時が経つにつれて次第にクローズアップされる結果となりました。
人として生涯の師を持てるということは、本当に幸せなことです。
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この先生に習ってよかったと思える経験を持つというこは、もしかすると、人間の最大の幸福かもしれません。
教えてもらった内容は当然のこととして、その人柄から多くのことを学ぶのです。
『藤野先生』が、国境や世代を超えて読み継がれている理由はなぜか。
この小説が、人の心を打つ感動的なエピソードで構成されているからだけではありません。
人間としての普遍的なテーマと教訓を含んでいるからではないでしょうか。
人と人の付き合い方には国籍や立場の違いなどないはずです。
お互いへの尊敬に満ちた人間関係のあり方が基本でしょう。
世界がグローバル化している中で、これからの社会を担う世代の人への警鐘ともとれます。
思い出
小説『藤野先生』の終わりに近いところには次のような記述があります。
だがなぜか私は、今でもよく彼のことを思い出す。
我が師と仰ぐ人のなかで、彼はもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれた一人だ。
私はよく考える。
彼が私に熱烈な期待をかけ、辛抱強く教えてくれたこと、それは小さく言えば中国のためである。
中国に新しい医学の生まれることを期待したのだ。
大きく言えば学術のためである。
新しい医学が中国に伝わることを期待したのだ。
私の目から見て、また私の心において、彼は偉大な人格である。
その姓名を知る人がよし少ないにせよ。
彼は最後にくれた先生の写真を一生大切にして家の東の壁に架けていました。
そこには「惜別」という文字が輝いていたのです。
藤野厳九郎は後半生を郷里の福井県で耳鼻咽喉科の開業医として過ごしました。
魯迅は藤野先生の安否を気にかけながら没したのです。
先生は魯迅のこの作品を知った後も名乗り出なかったといいます。
そのようなことで自分を売るなどいう思いは毛頭なかったのでしょう。
むしろ恥ずかしい行為だと思ったに違いありません。
魯迅が亡くなってから、世間は藤野先生の消息を知ることとなりました。
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しかし彼は何も語らぬまま、1945年に世を去ったのです。
現在、福井県の芦原温泉に「藤野厳九郎記念館」があります。
この記念館は、昭和58年芦原町と中国の浙江省紹興市との間で締結された友好都市を記念したものです。
藤野家が旧宅を寄贈しました。
現在芦原温泉湯のまち広場に移築されています。
彼の人柄を知るには絶好の記念館です。
人と人が出会うということは、まさにこういうことを言うのでしょう。
読むたびに胸が熱くなります。
名作です。
一読をお勧めします。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
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