人間の宿命とは
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『大鏡』を取り上げます。
この本は藤原道長の栄華を中心に構成された歴史物語です。
このブログでも何話かご紹介しました。
リンクを貼っておきます。
あとで読んでいただければ幸いです。
京都紫野の雲林院の菩提講に参詣した大宅世継(190歳)と夏山繁樹(180歳)の2人が自分の見聞を語ったものを作者が書き留めたという体裁でできています。
中国の『史記』に習って紀伝体というスタイルでできているのです。
紀伝体というのは個人や1つの国に関しての情報がまとめて紹介してあるタイプの文章です。
その人物や国にスポットをあてているために、大変理解しやすいです。
これに対して年毎に並べていく方法を編年体といいます。
こちらは全体としての流れがつかみやすいという点が特徴ですね。
『大鏡』は特に藤原道長にまぶしいくらいライトが当たっています。
すごくリアルで立体的な内容なのです。
歴史物語の中でも1番人気があります。
高校ではいくつもの段を学習します。
今回の道真の左遷は古典の選択授業などで扱われることが多いようです。
どちらかといえば、古典好きの生徒のための教材といえますね。
菅原道真といえば、天神様として知られています。
学問の神様です。
大宰府をはじめとして、各地に天神様として祀られています。
大阪天満宮、北野天満宮、東京にも湯島天満宮、亀戸天満宮など各地にたくさんあります。
菅原道真は学者でした。
宇多天皇譲位の際、右大臣として左大臣藤原時平とともに仕えていました。
しかし時平の策謀により、大宰府に流されその地で亡くなったのです。
天変地異
彼の死後、いろいろな天変地異が起こりました。
平安京では雷、大火、疫病などが相次ぎ、清涼殿落雷事件で大納言の藤原清貫ら道真左遷に関わったとされる者たちが相次いで亡くなったりもしたのです。
怖れを抱いた人々は彼を大自在天や大威徳明王などと関連付け、神として祀りあげました。
恨みが怨霊になったと思ったんでしょうね。
そこには無実の人を陥れたという後悔もあったことと思います。
本文を読んでみましょう。
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この大臣、子どもあまたおはせしに、女君たちは婿とり、男君たちは皆、ほどほどにつ
けて位どもおはせしを、それも皆方々に流され給ひて悲しきに、幼くおはしける男君・
女君たち慕ひ泣きておはしければ「小さきはあへなむ。」と、朝廷も許させ給ひしぞかし。
帝の御掟て、きはめてあやにくにおはしませば、この御子どもを同じ方に遣はさざりけり。
かたがたに、いと悲しく思しめして、御前の梅の花を御覧じて、
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな
また亭子の帝に聞こえさせ給ふ、
流れゆく我は水屑となり果てぬ君しがらみとなりてとどめよ
なきことにより、かく罪せられ給ふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎にて出家せし
め給ひて、都遠くなるままに、あはれに心細く思されて、
君が住む宿の梢をゆくゆくと隠るるまでも返り見しはや
また播磨の国におはしまし着きて、明石の駅という所に御宿りせしめ給ひて、駅の長の
いみじく思へる気色を御覧じて作らしめ給ふ詩、いと悲し。
駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋
(中略)
またかの筑紫にて、九月九日、菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしまし
し時、九月の今宵、内裏にて菊の宴ありしに、この大臣の作らせ給ひける詩を、帝、
かしこく感じ給ひて、御衣賜はり給へりしを、筑紫に持て下らしめ給へりければ、
御覧ずるに、いとどその折思しめし出でて作らしめ給ひける、
去年今夜待清涼
秋思詩篇独断腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拝余香
この詩、いとかしこく人々感じ申されき。
現代語訳
道真公には、子どもが多くいらっしゃいましたが、姫君たちは婿を取り、ご子息たちは皆、それぞれ身分に応じて位などがおありでした。
その人たちも皆あちらこちらに左遷されになって悲しいのに、まだ幼くていらっしゃった男君や女君たちが、父である道真公を慕って泣いていらっしゃいました、
「幼い者は(連れていっても)差し支えないだろう。」と、朝廷もお許しになったのです。
帝のご処置が、非常に厳しくていらっしゃったので、このご子息たちを、同じ場所におやりにならなかったのでした。
菅原道真はあれこれととても悲しくお思いになって、お庭先の梅の花をご覧になって歌をお詠みになられました。
春になって東の風が吹いたならば、その香りを私のもとまで送っておくれ、梅の花よ。
主人がいないからといって、春を忘れてくれるなよ。
また、宇多天皇に申し上げなさった歌もございます。
太宰府へと流れていく私は、水の藻屑のような身になってしまいました。我が君よ、
どうか水屑をせき止めるしがらみとなって、私をとどめてください。
無実の罪によって、このように罰せられなさるのを、大いに嘆き悲しまれました。
まもなく道中の山崎で出家なさり、都が遠くなるにつれて、しみじみと心細くお思いになって歌をお詠みになったのです。
あなたが住んでいる家の梢を、西への道すがら、それが隠れて見えなくなるまで振り返って見たことです。
(中略)
また、播磨の国にご到着になって、明石の駅という所にお泊まりになりました。
そこの駅長がたいそう心配する様子を道真公がご覧になって、お作りになられた歌は、とても悲しいものでした。
駅長よ、時の変化を驚くことはありません。
栄枯盛衰というのは、春に草木が芽生え、秋に散っていくのと同じことなのです。
また、あの筑紫で、9月9日に菊の花をご覧になりました。
道真公がまだ京都にいらっしゃった昨年の9月のこの日に、御所でお作りになった歌を、
天皇が「大変すばらしい」と感動なされてお召し物をお与えになられたことがありました。
その着物を筑紫にお持ちになっていらっしゃっていたので、菊の花と着物をご覧になると
、いよいよその時のことが思い出されて、お作りになられた歌がこれなのです。
昨年の今日は、清涼殿で天皇の近くにおりました。
その時「秋思」という詩を作ったのですが、思い出すと断腸の思いであることです。
天皇から頂いた着物はいまここにあります。
毎日捧げては、着物の残り香で、天皇のことを思い出しています。
この詩を聞いた人々は、とてもすばらしいと感嘆申し上げたということです。
学者道真
道真は学者です。
宇多天皇以外になんの後ろ盾もありませんでした。
最大の後援者を失ったのです。
政敵たちはこのチャンスを見逃しませんでした。
ただちに菅原道真を太宰権帥に任命したのです。
福岡への赴任の命令でした。
当時は何もないただの田舎です。
左遷そのものでした。
その理由としては、醍醐天皇を引退させ、自分の娘を嫁がせた斉世親王を皇位につかせようとしたといういいがかりに過ぎなかったのです。
悔しかったことと思います。
しかし後ろ盾がないのでは仕方がありません。
反逆の手段を持ちえないまま、彼は大宰府で亡くなりました。
政治と学問の間で揺れた道真の無念が想われます。
天神様と梅の花の関係は想像以上に深いのです。
最後までお読みいただきありがとうございました。