【医療看護系小論文・いのち】タブー視される死と延命措置の境界線は

学び

遠ざかる死

みなさん、こんにちは。

小論文添削歴20年の元都立高校国語科教師、すい喬です

今回は「死」について考察します。

医療系の学校を志望している生徒にとっては必ず考えておかなければならないテーマです。

近代が死をタブー視していることは周知の事実です。

幸いなことにこの75年間の間、日本は戦争の当事者にはなりませんでした。

戦火に焼かれ死ぬという光景も見ずにすんだのです。

しかし私たちの周りには夥しい戦争の実態があります。

周辺の国々を少し注意深く観察すれば、すぐ明らかになるでしょう。

ところが外国から入ってくる戦争の映像からは死が見事に消されています

テロや爆発などの写真が掲載されていても、そこに死体はありません。

メディアはみごとにそれらの影を消しているのです。

近年、医療の発達や衛生環境の向上などもめざましいものがあります。

今や全人口の4分の1以上が65歳以上の高齢者です。

超高齢化社会になりました。

そこで問題になるのは人々の意識なのです。

都市においては殊に地縁、血縁で結びついた共同体が弱体化しています。

核家族化により近親者の死を目近にみる機会も失われつつあるのです。

自宅で死者を看取るということも殆どなくなりました。

葬祭業者などが儀式をシステム化し日常的な風景の中へ嵌め込もうとしています。

手触りの死が私たちの周囲から殆ど消えてしまったのです。

かつては村八分になっても、葬儀については全く別扱いでした。

それくらい人の死は手のかかることだったのです。

Free-Photos / Pixabay

しかし現代は違います。

全てを業者に任せることが一般的になりました。

自宅で葬儀を営むということもほとんどありません。

このような環境の中で、私たちは日々の生を営んでいます。

実感のない死が周囲を漂っているだけなのです。

死の文化の変容

こうした状況下、医療看護系を中心に「死」の問題は何度も出題されています。

医療従事者にとっては、1番生々しい現実だからです。

文系の学部でも時に出題されます。

「死」についての論点はいつどの学校で出題されても不思議ではありません。

この問題に正対しておくことは、基本中の基本でしょう。

小論文としては最も難しいテーマのうちの1つです。

それでいて避けることはできません。

sasint / Pixabay

ことに医療現場にいれば「死」を見ることは日常茶飯事です。

それをどう受け入れていくのかを心して考えておかないと、いざその時になって動揺を抑えられないということになります。

これはある意味、小論文以前の問題ともいえるでしょう。

死は宗教との関わりを深く持っています。

「死」を受け入れるということは宗教なしには考えられません。

「魂」の存在がどこへ行くのかというのは大きなテーマです。

しかし都市部においては宗教そのものが日常の生活から乖離しています。

粛々と行われてきた宗教行事もほとんど消えつつあるのです。

かつて彼岸や盆の行事は日常の中にありました。

それが急速になくなっています。

地方においてはまだ行われているようですが、世代を重ねる中で明らかに変化がみられます。

EliasSch / Pixabay

死の文化がやせ細ってきたことは間違いがありません。

人の死が個体の終わりであるとすれば、死は恐怖の対象です。

忌み嫌われるという意味では遠ざけるべきものの代表ということになるのでしょう。

死というリアリティが現世と来世を結びつける壮大なドラマであった時代はとうに過去のものになりつつあります。

そういう視点から文章を書きあげていく方法を考えておいて下さい。

医療現場の問題

小論文では最も論点になるところが出題されます。

その第1が延命措置です。

根本は身体は誰のものかというテーマです。

個人が自由であるのは言うまでもありません。

人権の思想の根本です。

しかし病床に臥せった状態でそれを全うしきれるでしょうか。

本来なら「生」をどのように終えるのかは患者の決定に委ねられなければなりません。

しかし医療従事者は何も治療を施さずに患者を見ていることに耐えられるのかどうか。

truthseeker08 / Pixabay

ここから大きな問題が発生します。

身体中にチューブを差し込んで、栄養点滴をし、それでも生きていると言えるのかどうか。

あるいはこの管を外せば、死が決定するという瞬間に医療従事者はどのような行動をとればいいのか。

安楽死の根本的な問題はここにあるのです。

賛否がわかれるのもこの論点です。

延命を希望していない患者に対してどこまでの治療をすればいいのか。

医療者が死を決定することが許されないとしたら、最後まで心臓マッサージを続けなければならないのでしょうか。

非常にデリケートな問題です。

死の哲学が必要な時代

死の文化が細っているという考え方を否定する人は多くないでしょう。

かつては先祖によって一族郎党が守られているという信仰がありました。

現在でも全くないわけではありません。

今でも墓参をする人の姿は多くみられます。

しかし少子化の中で墓を守る人間そのものも減っているのです。

あるいは結婚して夫の墓に入るとしたら、実家の墓は誰がみるのかという現実もあります。

さらに地方から都会へ出てきた人がそのまま結婚した時、田舎の墓は誰が守るのかという問題もあります。

そうしたものを否定して樹木葬や海上での散骨などを希望する人もいます。

人の死が個体の終わりであり、魂の存在は認めないという人もいます。

かつてのように一族が同じ墓に入るという時代ではなくなっているのです。

死は遠い存在となり、その時だけ想起されるイベントになってしまったのかもしれません。

それだけに医療従事者の立場もかなり難しいです。

今回のコロナ禍では、親族が火葬する現場に立ち会うことも許されませんでした。

この例などは最終の局面まで、人間がモノとしてウィルスの草刈り場になっていることを想起させます。

たとえ亡くなった人間であろうと病原菌保有者である事実はかわらないのです。

これも医療の持つ冷酷な一面だと言えるでしょう。

科学が進歩すれば、どこまでもそれに対応した処置をとらなければならなくなります。

実に冷徹なことです。

今年は特にコロナウィルスで亡くなった人々の問題が出題される可能性もあります。

その死に対して、何を感じるのかというテーマが出るかもしれません。

尊厳死との境界も当然問題になるでしょう。

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あらゆる視点から現在の「死」の現実を見つめておいてください。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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