言い立てが難しい
みなさん、こんにちは。
アマチュア落語家のすい喬です。
今回は以前も書いたことのある蒟蒻問答について書かせてください。
この「蒟蒻」という字は難しいですね。
「こんにゃく」です。
すごく厄介な漢字ですけど、なぜか噺家さんだけは書けるのです。
寄席で根多帳に書きこみますのでね。
根多帳とは高座でやった噺をすべて記録しておくメモ帳みたいなものです。
後から楽屋にきた落語家はそれを見て、同じ噺や似た傾向のものを避けます。
「ネタがつく」といって許されません。
先に泥棒の噺が出たら、もう同じ系統の噺はできないのです。
そのため根多帳は大切なアイテムです。
さて今日もこんにゃく問答が高座にかけられたとしましょう。
ひらがなで書くのは悔しいので、この字だけは覚えなくちゃというワケです。
本当に難しい漢字です。
薔薇も憂鬱も難しいですが、蒟蒻も難しい。
ぼくもこんにゃく問答という落語は大好きで、何度もやらせていただいています。
一言でいえば手数のかかる厄介な噺ですね。
特に途中に出てくる言い立てのところは流暢にやらなければいけません。
言い立てというのをご存知ですか。
長い台詞を一気に間違えずに言わなくてはならないのです。
永平寺のお坊さんを本堂に連れていく時、お寺の中の様子を説明するシーンです。
かなり難しい表現が続くので、頭から丸暗記しなくてはいけません。
どんな台詞か、ちょっとだけご紹介しましょう。
こんなのを丸暗記するんですから、バカじゃ噺家にはなれません。
しかし利口な人は絶対にやりませんけどね。。
案内に連れ、竜のひげを踏み分け踏み分け来てみれば、本堂は七間の吹き下ろし。 幅広の障子を左右に押し開く。 寺は古いが曠々としたもので、高麗縁の薄畳は雨漏りのため茶色と変じ、狩野法眼元信の描きしかと怪しまるる格天井の一匹龍は鼠の小便のために胡粉地のみとあいなり、欄間の天人蜘蛛の巣に綴じられ、金泥の巻柱は剥げ渡り、幡天蓋は裂かれて見るかげもなく朝風のために翩翻と翻る。 正面に釈迦牟尼仏、傍らに曹洞宗禅師、箔を剥がし煤を浴び、一段前に法壇を設け一人の老僧。 頭に帽子をいただき、手には払子をたずさえ、まなこ半眼に閉じ、座禅観法寂寞として控えしは、当山の大和尚とは、真っ赤な偽り。 なんにも知らない蒟蒻屋の六兵衛さん。
どうですか。
こんなのとても覚えられないという人は、ちょっとモチベーションが低いかな。
入門して数年した前座さんはみんな必死になって歩きながら覚えるのです。
禅問答をするシーン
禅問答のシーンは圧巻です。
まさに教義にからむので、その意味をきちんと把握しておかなくてはいけません。
ただペラペラとやるだけではダメです。
出てくる用語は難しいものが多いですね。
しかし勉強する機会にもなるのです。
今までにもいくつかの表現には出会ってきましたが、「五戒」をきちんと理解しようとしたのはこの落語を知ってからです。
もう1つくらい「五戒」が出てくる落語はないかなと思っていたら「茄子娘」がありました。
亡くなった入船亭扇橋師匠がよくおやりになっていました。
今ではお弟子さんの扇辰さんが高座にかけます。
最近は風貌も師匠に似てきましたね。
「茄子娘」という噺でも五戒という表現は大切なキーワードになります。
ぼくもこの噺をやらせてもらっています。
夏の風物がいくつも出てきますので、暑い季節にふさわしい噺です。
五戒とは何か
何を訊いても答えようとしないニセ和尚に対して、永平寺の学僧は無言の行中と推察し、我も無言で訊ねようと決心します。
最初に両手を大きく開きます。
学僧は十方世界とは何かと訊ねるのです。
蒟蒻屋の親父扮するニセ和尚は片手を広げます。
実はこんにゃくが10丁でいくらなのかと訊かれたと勘違いし、500文だと答えたのです。
しかし学僧は5の示す意味を別に捉えます。
それがまさに「五戒」で保つということでした。
「五戒」という表現はよく聞きますね。
ぼくも本格的に知ったのはこの落語からでした。
内容をきちんと言えるようにしておいた方がいいと思います。
仏教のことなど知らなくても、常識の範疇として知っておいてムダはありません。
十方世界とは全ての世界の意味です。
ここは簡単に飛ばしましょう。
「五戒」は以下のしてはならない戒めのことです。
1.殺生戒(せっしょうかい) 2.偸盗戒(ちゅうとうかい) 3.邪淫戒(じゃいんかい) 4.妄語戒(もうごかい) 5.飲酒戒(おんじゅかい)
この5つの戒めをきちんと守れば、人生をつつがなく終えることができるというものです。
しかしよく考えてみてください。
なぜこのような戒めがあるのでしょうか。
答えは簡単です。
なかなか守れないからです。
この戒めは世界の宗教のほぼ全てにわたって存在しています。
それだけ普遍性のあるものなのだということがよく分かります。
タブーとか戒めというのはどうしても人間が簡単には守り切れないものです。
それだけ誘惑に満ちているとも言えますね。
いつも人を迷わせる。
だからなおさらこの戒めの意味が重いのです。
テレビのワイドショーや週刊誌のタイトルはこの5つの分類の中にたいてい入ります。
「殺生戒」とは、生き物を殺さないことです。
蚊やハエなどの虫も含めてどんな生き物を殺しても殺生の罪となります。
生きるということは、それだけ罪深いことです。
他の生き物の命を奪わないと、人は生存できません。
「偸盗戒」とは、他人のものを盗まないということです。
盗むというのは人間に備わった本能なのかもしれません。
1度も他人のものをとったことがないという人はおそらくいないでしょう。
それだけ人にしみついた本能なのです。
「邪淫戒」とは、よこしまな男女関係をしないということです。
不倫や浮気ももちろんダメです。
しかし世の中から永遠になくなることはありません。
それだけ人の欲望は複雑だということです。
人間がいる限り、この戒めが消えることはないと思われます。
どうしたらいいんでしょうね。
どれも守るのは難しい
「妄語戒」とは嘘をつかないということです。
自分の出世のために嘘をつくというのは悲しいことです。
それが原因で自殺者が出た時、人はどのように思うのでしょうか。
昨今のニュースをみていると悲しい現実が多すぎます。
自分に都合の悪いことは、うやむやにしたり、相手が誤解するような言い方をするのだけは避けたいものです。
しかしこれがとっても難しいのです。
「飲酒戒」とは、お酒を飲まないということです。
程度の問題でしょうね、きっと。
判断力が失われるほど飲むのは避けなければいけません。
落語には酒飲みの噺が多いです。
わかっちゃいるけどやめられないという悲喜劇ばかりです。
これらの五戒を守らなければ人間になれないとするならば、ほとんど不可能な気もしてきます。
修行僧はニセ和尚のいう言葉を真面目に受け取り、とても問答をしても勝てないと判断して退散したというワケです。
蒟蒻問答というのは、お互いに伝えようとしている内容が全くかみ合わない時の代名詞にもなっています。
簡単に言えば落語版「バカの壁」ですかね。
ちなみにこの噺に出てくる言葉に「葷酒山門に入るを許さず(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」というのがあります。
これは修行の妨げになるような匂いのするもの(ネギやニラなどのように匂いの強いもの)と酒を寺院内に持ち込むことを許さないという意味です。
禅宗の寺を訪れたら門の傍らをみてください。
この言葉が大きな石に刻んであったりします。
最後に三尊の弥陀はと聞かれ、蒟蒻屋の親父はあっかんべえをしますが、学僧は「目の前を見よ」と理解します。
お寺の本堂に安置される一組の仏像は中央の主尊と左右にそれぞれ脇仏がいます。
これを三尊像と総称するのです。
人間、目の前を見て暮らさなければいけませんね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。