【小論文】論理的な文章を書くのは迷路を脱出するより難しいワケ

学び

論理的になれない

みなさん、こんにちは。

小論文添削歴20年の元高校国語科教師、すい喬です。

入試のシーズンもまもなく始まります。

推薦入学やAO入試も始まっています。

私大難化のウワサが毎日のようにネット上を飛び交っています。

どうしたって不安になりますよね。

定員の厳格化ということが、とんでもない結果を招いています。

数年前なら入学できた生徒が試験に不合格ということも珍しくなくなりました。

人生は1度です。

できることなら失敗はしたくない。

どうしても安全志向に傾いてしまうことも当然あるでしょう。

しかし今がチャンスだと考える人もいます。

それぞれの価値観が試される時ですね。

そうした中で、小論文の試験も行われます。

それでなくても日本人は論理性に欠けるとよく言われます。

もともと論理優先で文章を書けということが難しいのです。

それはなぜか。

そうした訓練をほとんどやっていないからです。

日本の国語の授業は感性重視が基本です。

感想文や作文をみれば、明らかでしょう。

思った通りを書きましょうといったような授業がほとんどです。

中学校までは作文主体です。

論文などというものを書いた経験を持っていません。

高校も同じ

実はこの傾向は高校でもあまりかわりません。

どちらかといえば、どう感じたのかということを個人が述べるというスタイルが国語の主流です。

自分がどう思うかに対して、相手がそれをどう理解したかという授業はあまりしていません。

なぜでしょうか。

一番の基本は国語の先生になる人がそうした訓練を受けていないからです。

元々、国語の教員になる人は圧倒的に文学好きです。

小説が好きなのです。

だから感覚でものごとを捉えるということは得意です。

しかし論理を追いかけて、内容を吟味するというのは大変に苦手なのです。

国語の教師になりたいという動機は、好きな小説や古文を読みながら、感動を生徒に伝えたいというのが圧倒的です。

俳句、短歌を含めて定型詩を好む人も多いです。

高校入試の問題には必ず小説と評論が出ます。

特に自校作成の高校などでは難解な評論がたくさん出題されます。

哲学、言語、文化を中心としたテーマが圧倒的に多いです。

自校作成をする学校は基本的に入試問題が難しいです。

だから生徒は塾へ通い、どう読み解くかの訓練をある程度受けざるを得ません。

記述式の問題も200字程度で出されます。

少し厄介な問題もないワケではありません。

訓練が必要な所以です。

しかし学校ではそういう類いの授業はほとんどしていません。

感性重視のテーマが中心なのです。

ところで自校作成以外の高校入試では難問が出されることはほとんどありません。

論理的に追い詰めていくというところまで勉強しなくても十分に可能性は開けるのです。

200字程度の記述式問題は、どんなことを考えたか自由に書きましょうというレベルです。

採点の基準もそれほどに厳しいものではありません。

大学受験では

さて、大学を受験する場合はどうでしょう。

これは大学によって大きな差があります。

非常に難解な問題を出す大学も確かにあります。

国語の試験を課さないかわりに、小論文だけというところもあります。

私学では慶応義塾大学のみといってもいいかもしれません。

ここの小論文は大変に広いテーマの中から自由に選ばれて出題されます。

論理的な思考力がなければ、文章の要約もできません。

さらに自分の考えを的確につかみ整理し書くという作業には、格段の国語力が必要です。

通常の国語の試験の方がある意味で易しいと言えるかもしれません。

高校段階で相当な論理的思考の訓練を積んでいなければ、突破は困難です。

元々日本語の構造が論理となじまないということは、昔から言われてきました。

否定文にせよ、肯定文にせよ、それを示す段階があまりに後方にあるのです。

英語は否定か肯定が一目でわかる構造になっています。

英語でものを書く場合、必ず最初の文章に続いて「なぜなら~だ」という説明の文章を付け加えます。

これが自然な文の構成要素だからです。

日本語でそれをすると、あまりにも理屈っぽい文章になり、言葉の響きがギスギスしたものになります。

余韻が全くなくなるのです。

これを日本人は嫌います。

元々、同じ民族の中で同化してきた人々にとって、なぜならという論理を毎回語ることは苦痛でもあります。

それくらいのことはわかるでしょうというのが日本語のシステムなのです。

論理の筋道

それだけに論理優先の文章を書くということは、本当に苦しいのです。

おそらく小論文をやらなくてはならないという段階になってから、はじめてそうした文の構造を学んだ人が多いのではないでしょうか。

突然このように書きなさいと言われて、できるものではありません。

感性重視で進んできた教師にとっても、指導は困難です。

小論文をみてあげたくても、どのように指導すればいいのかわかりません。

言葉のミスや助詞、助動詞の間違いはわかります。

しかし論理性を追求して文章を組み立て、破断のない明確なものにまとめさせるのは至難の業です。

論理の流れをきちんと添削し、なおすことはなかなか難しいのです。

これはある意味、仕方のないことです。

生徒も苦しいですが、先生も苦しいのです。

仕方がなく、いろいろな参考書にあたってみても、断片的な知識にはなるものの、総合的な論理性をはぐくむというところまではなかなかいきません。

そこが実は一番厄介なところです。

時間がとてもかかります。

しかし現実には数ヶ月のうちに、一通りの形に仕上げなければなりません。

ここが最大のネックです。

どうしたらいいのか。

高校ではいよいよ「論理国語」という授業が始まります。

おそらく時代の要請でしょう。

「文学国語」という科目は、脇においやられるに違いありません。

それもこれもAI時代の置き土産です。

どのように対処をすればいいのか。

最大の問題が起ころうとしています。

解決にはある程度時間がかかるのは仕方がありません。

しかし試験は目の前に迫っています。

なんとかしなくてはというのが、今の皆さんのおかれた立場ではないでしょうか。

それくらい、日本人にとって論理的に書くという行為は難しいのです。

どのようにして鍛えたらいいのか。

今までに随分とこのサイトでも書いてきました。

一番の近道は新聞のように書くことです。

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どこから見てもムダのない文章で筋道が通っているのは新聞です。

つまり目標をそこにおいてください。

短期間で学ぶにはそれしかありません。

文章は短く、一文は必ず一義と決めてください。

いくつもの内容を1つの文に入れてはいけません。

重ねておきます。

新聞が目標です

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似た文体と論理優先の文章ができあがったら目標に一歩近づきました。

最後まで諦めずに、この迷路から抜け出る道を模索してください。

吉報をお待ちしています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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