【落語】柳家小三治の天災は江戸っ子の明るさ全開でいつでも満点

落語

天災の面白さ

みなさん、こんにちは。

アマチュア落語家、すい喬です。

最近ではこの表現より社会人落語家の方がよく使われているみたいですね。

毎年、大阪府池田市で「社会人落語日本一決定戦」などという大会をやってます。

ホームページがあるのでちょっと覗いてみてください。

かつてはぼくみたいな道楽者を総称して天狗連といいました。

これは我こそはとみんな天狗みたいに威張っているところからつけられた名称です。

この天狗連出身でプロになった人もたくさんいたのです。

今ならさしずめ大学の落研ですかね。

現在、東京と大阪で実にプロの落語家は850人もいます。

その他、まだ前座にもなれない見習いもいますから総数は900人近いと考えられます。

いったいどうなってるんでしょう。

吉本のお笑い芸人よりは少ないでしょうけどね。

さて今日はぼくの大好きな落語「天災」の話です。

これは落語を始めたごく最初の頃に柳家小三治の型で覚えました。

何度か高座にもかけています。

内容的にはそれほど難しくはないものの、なんといっても江戸っ子の素っ頓狂な味がでないと、ちっとも面白くありません。

どんな小言を言っても、みんな忘れちゃうような脳天気な八っつぁんを演じられないと、この噺の味わいは出ないのです。

一番の難しさは腹の芸でしょうね。

この主人公の脳天気な生きざまをどう表現するのか。

ここが最大のポイントです。

随分といろいろな人の「天災」を聞きましたが、やはり小三治のが一番面白い。

空っとぼけてるというのがぴったりの形容でしょうか。

どこまで真面目なのかわからない。

心学の先生、紅羅坊名丸との応対で、ちっとも理解できなかったのに、中途半端な耳学問が後から災いを及ぼすという、典型的な「付け焼き刃ははげやすい」の落語です。

Barescar90 / Pixabay

江戸っ子の気分が出せたら、この落語はうまくいきます。

伝法な口調という言葉をご存知ですか。

要するに職人言葉です。

ぶっきらぼうで意気がってばかりで愛想がない。

それでいて悪気なんか全くない。

だから笑えるのです。

あらすじ

隠居の所へ短気で喧嘩っ早い八っつぁんが、「離縁状を2本書いてくれ」と言って飛び込んできます。

婆ぁにやるんだというのでよく聞くと、夫婦喧嘩で女房を殴ったら母親が仲裁に入り、女房の肩を持ったから腹が立つので、家から追い出すのだと言います。

隠居はいくら説教をしてもムダと諦め、長谷川町新道に住む知り合いの心学の先生、紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)への手紙を持たせます。

「先生の話をよく聞いて来い。それでもわからないようなら離縁状ぐらい何本でも書いてやる」

「べらぼうに怠けるってやつは知らないか」と喧嘩腰でやって来た八っつぁん。

紅羅坊名丸は驚きもせず、いくつかの話をします。

「孝行のしたい時分に親はなし」
「短気は損気」
「ならぬ堪忍するが堪忍」
「堪忍の袋を常に首に掛け、破れたら縫え、破れたら縫え」
「気に入らぬ風もあろうに柳かな」
「むっとして帰れば角の柳かな」
「吹く風を後ろに柳かな」

いろいろとたとえ話をしながら丁寧にさとすものの、八っつぁんは混ぜっ返すばかり。

全く話が通じません。

そこで紅羅坊名丸さらにいくつもの例を上げて話します。

「何もない大きな原っぱで夕立にあったらどうする」

geralt / Pixabay

「天から降ってきた雨で、誰とも喧嘩しようもないから諦める」と八っつぁんも最後には降参します。

「そこだ、何事も天から降りかかったもの思えば諦めがつく。天の災いと書いて天災だ。何事も天災と諦めれば腹も立つまい」

なんとなく理解できたような八っつぁんはいい気持ちで家路につきます。

長屋へ帰ると、隣近所がいやに騒々しいのが気になりました。

「どうしたんだ」

「大変だったんだよ。おまえさんのいない間に、熊さんが新しい女を引っ張り込んで、そこへ前のおかみさんが怒鳴り込んできて大変な騒ぎだったの」

八っつぁんはさっそく熊の家に乗り込みます。

覚えたばかりの天災をさっそく披露するのです。

「奈良の神主 駿河の神主、中で天神寝てござる、ああこりゃこりゃ」

「神主の頭陀袋 破れたら縫え 破れたら縫え」

「気に入らぬ風もあろうに蛙(かわず)かな」

誰にも全く意味がわかりません。

支離滅裂です。

何を言っているのか訳が分からないという熊さんに、八っつぁんは奥の手を出します。

「先(せん)のかみさんがどなり込んできたと思うから腹もたつんだ。天が怒鳴り込んで来たと思え。これすなわち天災だ」

熊さん 「なぁ~に、俺のところは先妻の間違いだ」

掛け言葉

典型的な掛け言葉のオチの落語です。

地口オチと言います。

途中までものすごい勢いで噺が展開するので、最後のこのオチのパターンがちょっと勿体ないような気もします。

もう少し、ここで何か味わいがあってもいいんじゃないかなとも思いますが、この噺のばかばかしさにはあっているのかもしれません。

ここに出てくる心学というのはあまり聞いたことがありませんよね。

なんでも天の災いにしてしまうというのは、わかったようなわからないような…。

今日の合理性重視の世の中では到底通用しそうもない考え方です。

しかし江戸時代はこの考えた方に、多くの人が影響を受けたと思われます。

石門心学という言葉を聞いたことがありますか。

日本の江戸時代中期の思想家、石田梅岩が開いた倫理学の一派です。

難しいことをいくら言ってもわからないので、こく簡単なやさしいたとえ話を入れながら、実践的な道徳を教えました。

3D_Maennchen / Pixabay

最初は江戸を初めとした都市部から、やがて農村にも広がったといわれています。

「心学」というのは特定の人に話すわけではなく、教える人が話を聞きにきなさいというスタイルのものです。

難しい話をしても誰もわかりません。

面白い話、たとえ話を中心にして、あらゆることを説きました。

仏教や儒教や神道などのいいとこ取りです。

心学が最も大切にしたのは「自分の心を磨く」ということです。

そのための材料になるものであればなんでも構わないというスタンスが良かったんでしょうね。

紅羅坊名丸はワケのわからない八っつぁんに向かって、1つ1つ具体的な話をして聞かせます。

普通なら、少しは理解できたんでしょうけど、八っつぁんには無理でした。

しかしそこはおっちょこちょいの江戸っ子です。

なんとか自分が仕入れたネタをどこかでご披露したい。

それが熊さんの家だったというわけです。

こういう類いの落語はいくつかあります。

「付け焼き刃ははげやすい」というパターンの代表は「子ほめ」でしょう。

この噺については以前書いたことがあるので、一番下にリンクを貼っておきます。

お暇な時にお読みくださいね。

柳家小三治の味

柳家小三治という人はけっして性格の明るい人ではありません。

今では人間国宝にもなり、落語界の奥の院にじっと座っているだけで、怖い存在です。

多くの芸人にとって憧れの的でしょう。

geralt / Pixabay

気むずかしいところも人一倍のものがあります。

しかしこの天災に出てくる八っつぁんの造形は実に楽しい。

小三治という人は本当はこういう人なのかもしれません。

江戸っ子の脳天気なところを演出するのが好きなんじゃないでしょうか。

他に例を出せば、「野ざらし」がそれにあたります。

1人で向島に出かけ、釣りをするシーンなどは、他の噺家には真似ができません。

なぜかといえば、そんなことはありえないという素の自分に戻ってしまうからです。

あそこまで間抜けな男を演じるのは、ものすごく難しいです。

エサもつけずに釣りをしながら、妄想にふけるのです。

途中で演者の方が照れてしまうような仕掛けがたくさんあります。

このように1人でぼけきる男を演じるのは、大変に厄介です。

事実、最近は「野ざらし」を高座にかける噺家が少なくなっています。

それというのも、お客をそこまで自分の噺に引きずり込むのが難しくなっているからです。

今の世の中でこんなことをする人はいないという事実に気づくと、もうそこで観客の想像力はストップしてしまいます。

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その意味で「天災」の難しさとよく似ています。

ぼく自身、この噺をしばらくやっていない理由もそのあたりにあるような気がします。

一緒になって真剣に踊らないとダメというのがこの落語のキモかもしれません。

もう少し稽古したら、またどこかでやってみたいと思います。

その意味で、小三治という落語家の突き抜けた怖さを実感する日々です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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