いつか読みたい小説
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師のすい喬です。
今回は三島由紀夫の小説を取り上げます。
彼が生涯の最後に書き上げた長編4部作「豊饒の海」についてです。
タイトルくらいは聞いたことがありますか。
三島由紀夫なんていう名前、知らないよという人も多いんでしょうね。
学校の教科書にはほとんど載らない作家です。
それは彼が非道徳的だとされているからです。
ぼくも40年間の間に三島の作品を授業で扱ったことがほとんどありません。
学校は基本的にモラルに反した作家の作品を扱うことはないのです。
記憶に残っているのは、文学作品だけを読むという授業で『白鳥』という小説をやったことくらいでしょうか。
これは若い男女が雪の日に乗馬クラブの馬場で出会うという話です。
生徒はあまりにも実感のない話なので、ビックリしていました。
この作品はごく初期の『花ざかりの森』に所収されたものです。
雪の降りしきる朝、若い男女が純白な出会いをします。
お互いが好感を持ちあい、わずかのあいだに親密になる様子がおもに女性の心理を通して描かれているのです。
実に美しい文体で綴られた夢のような作品です。
その他にもいくつか採択されたものはあるようですが、他の作品を授業で扱ったことはありません。
それくらい学校現場と三島由紀夫との作品の距離は遠いのです。
なぜか。
彼の生前の言動と行動にあります。
割腹自殺
三島が陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で自決を遂げたのは1970年11月25日でした。
昼過ぎにテレビの速報が入り、それから一日中、マスコミにそれ以外のニュースは流れませんでした。
それくらい衝撃的な事件だったのです。
その彼が自決する前に書いたのが、最後の小説『豊饒の海』なのです。
この作品は4部作の総称で、細かく分けると『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の4作から成りたっています。
三島は最後の『天人五衰』を書き新潮社に届けてすぐ、市ヶ谷の自衛隊を訪れ割腹自殺をして、その生涯を閉じました。
最初の『春の雪』が出版された時、畢生の大作という大仰な広告が書店を飾っていたことを思い出します。
まだこれからいくらでも小説を発表する作家だと思っていただけに、その衝撃的な死に様に驚かされました。
ちょうど2巻目の『奔馬』を読み終えた頃でした。
第一報が届いたのは昼過ぎでした。
午後1時前だった記憶があります。
その日は深夜まで特番が続きました。
なぜこれほどによく覚えているかといえば、高校時代に国語の授業を受けた野口武彦先生が『三島由紀夫の世界』という本を読んでいたからなのです。
この評論は1968年に講談社から出版され、当時かなり売れました。
先生はその後文芸評論の世界に入っていかれました。
『潮騒』『金閣寺』『仮面の告白』などは既に読んでいました。
それだけにこの本の内容とそれに付随した様々な事実が重かったのです。
『春の雪』のたおやめぶり、『奔馬』のますらおぶりはよく語られるところです。
4部作といっても、内容が繋がっているわけではありません。
あえていえば、共通なのはそれぞれの主人公に黒子があるという点です。
それも同じ場所に。
これは彼が仏教の思想「輪廻転生」を、小説の中に含みこんだものといわれています。
春の雪のあらすじ
輪廻転生という言葉をご存知ですか。
「りんねてんしょう」と読みます。
あらゆる生き物は最後に死を迎えますね。
しかしその後も魂は残り、生まれ変わって次の生命の中に宿るという考え方です。
その思想をそのまま作品の中に入れました。
この4部作の中で一番読まれているのは第1巻『春の雪』です。
これは映画にも舞台にもなりました。
時は明治末期。
左の脇腹に3つのほくろがある主人公、松枝清顕は華族の家に生まれ、幼少期はさらに位の高い家系に当たる綾倉家に預けられて育ちます。
その綾倉家には清顕より2歳上の聡子という一人娘がいました。
清顕にとって聡子は、不思議な存在でした。
幼い頃から一緒に育ったことで、2人の愛情は微妙にねじれてしまったのです。
聡子は彼のことを深く恋慕していました。
清顕に突き放された聡子は傷つき、皇族と婚約します。
そこで清顕は聡子に対する本当の気持ちに気づくのです。
皇族の婚約者となった聡子は清顕と逢瀬を重ねます。
密会の果て、聡子は妊娠してしまいます。
清顕と聡子の関係が両家に知れ渡り、彼女は強制的に堕胎させられるのです。
その後、月修寺という寺に自ら出家します。
春の雪が降る2月、清顕は聡子に会いに月修寺へ赴きます。
しかし聡子は出てきません。
彼は雪の中で待ち続け、そのせいで肺炎をこじらせて死んでしまいます。
20歳でした。
死ぬ直前、清顕は友人の本多に対し「滝の下でまた会う」と、転生して再会する約束をします。
この作品が一番よく読まれている理由は、内容が理解しやすい愛情をテーマにしたものだからでしょう。
その後の巻では右翼の青年、さらにタイ王室の姫へと話が移っていきます。
現在の読み手にとって、感情移入がしにくいということがあるかもしれません。
その間、亡くなった松枝清顕にかわって全体の狂言回しになるのは、友人、本多繁邦です。
判事として活躍していた彼は、憂国の青年飯沼勲と出会い、さらにタイへ出向き、王室の姫とも向き合います。
本多がいなければ、20歳で死んだ松枝清顕の魂がどこへいったのかを、検証することはできなかったワケです。
ニヒリズム
三島由紀夫が亡くなる9ヶ月前に行ったインタビューが、未発表のまま残っていました。
彼はそのテープの中で自分の文学について語っています。
「僕の文学の欠点は、小説の構成が劇的すぎることだと思う。ドラマティックでありすぎる。どうしても自分でやむをえない衝動なんですね。大きな川の流れのような小説は、僕には書けないんです」
この記事を読んでいて、彼が最後に書いた『豊饒の海』の最終巻『天人五衰』を思い出しました。
確かに劇的に過ぎるストーリーです。
しかし最後に主人公、松枝清顕の友人、本多繁邦が尼になったかつての清顕の恋人、綾倉聡子を訪ねる場面は秀逸でした。
「その松枝清顕さんという方はどういうお人やした」
聡子は今やこの尼寺の住職になっています。
かつて激しく愛し合った清顕の存在を忘れたのではありません。
そんなことは何もなかったと呟くのです。
月修寺という門跡寺院を訪れると、山門の前から白い蜆蝶が飛び立ちます。
老いた本多は自分がただここを再訪するためにのみ、生きてきたのだと感じます。
この寺はかつて聡子が清顕から姿をかくすために逃げた寺でもあり、ここで得度をしたのです。
山門の佇まいが描かれたこの最終章は実に味わい深いです。
一期が夢であることを読者にいやおうなく悟らせる場面にもなっています。
三島由起夫の持っているニヒリズムの根幹に触れたような気がしました。
とても冷えていて諦念に満ちた、他者が覗いてはならない死の淵に見えます。
輪廻転生は確かに一つの主題ではあります。
しかしそれ以上に登場人物、とくに本多繁邦の老残が活写されていると感じました。
生きることは老いることだという、当たり前の事実をつきつけられたような気がします。
そこでは松枝清顕も聡子もすべてが背景になってしまっています。
次々と変化する物語の展開は、時にとんでもないどんでん返しを生みます。
それがまた読者を次の章へいざなう起爆剤にもなっているのです。
人間観察の鋭さにも見るべき箇所が多数あります。
映画も舞台もそれぞれに味わいがありました。
しかし文字を丹念に追いかけていくことをお勧めします。
最終章での聡子の言葉にも多くの感慨を抱くに違いありません。
三島由紀夫が自分のために書いた『失われた時を求めて』が、まさに『豊饒の海』という長編だと思いました。
こういう小説を書いていた作家がいた、ということだけでも知っておくことに意味があるのではないでしょうか。
もちろん、もっと読みやすい小説もたくさんあります。
有名な『潮騒』『金閣寺』「仮面の告白』
その他、戯曲では『近代能楽集』『鹿鳴館』などをお勧めします。
舞台にかかる時があったら、是非1度は覗いてみてください。
こういう作家がいたという事実だけでも知っておいて欲しいと思うのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。