親子で食事
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は社会問題として、家族のあり方を考えてみましょう。
子どもが一人で夕食を食べていると、「かわいそう」とか「親がもっと子どもと過ごすべきだ」と考えがちな人が多いと聞きます。
特に母親に対して、厳しい視線が向けられるようです。
しかし、そこで親だけを責めてしまうのには無理がありますよね。
親が子どもと食事できないにはそれぞれの理由があるからです。
なぜ親は夕食の時間に帰宅できないのかを少し考えてみましょう。

特にシングルマザーの例などは、非常に深刻です。
このテーマの原因は長時間労働や低賃金などと複雑にからみあっています。
「結果」だけを見て、社会的な「原因」を見落としてしまったのでは、なんの解決にもなりません。
しかし、多くの人は親の責任と考えがちなのです。
それを深堀りして、考えをまとめなさいという問題が、とある大学で出題されました。
昨今の小論文入試は実に多様です。
「家族なのだから、子どもの世話や親の介護などは家族がするべきだ」という考え方がこの国には厳然とあります。
もちろん家族同士が助け合うことは大切です。
しかし、それが強くなりすぎた時、どのような反応が主流になるのでしょうか。
「家族の問題は家族で解決するべき」という固有の思考がいきなり登場してくるのです。
いわゆる「家族絶対主義」と呼ばれるものです。
一見、誰もが疑わないこの思想を突き詰めていくと、本来は社会全体で支えるべき子育てや介護まで、家族に押しつけられてしまうという結果になります。
特に母親に負担が集中する理由を解き明かすことも大切です。
今回はこの問題の背景について述べた参考文を読みながら、考えてみます。
参考文
家族で食べたいけれども両親ともに夜遅くまで働いていて両親と食べられない子どもたちが夜、テレビを観ながら電子レンジで温めた夕食をつつくことが、「子どもたちがかわいそう」という感情を伴いつつ問題視されてきた。
しかしこのような物言いのときに注意すべきなのは、人びとの批判の矛先が、両親、とくに母親に向かい、親を家庭に帰さない職場や、遅くまで働かざるをえないほど法外な賃金の低さを許す社会にはなかなか向かないことである。
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。
家族は、互いに助け合わなければならない、というような家族絶対主義的な道徳訓が求められるのも、こうした孤食の問題と無関係ではない。
2012年4月27日、自民党の『日本国憲法改正草案』第24条にこの文言が書き加えられた。
さらに「孤食禁止法」のような法律が制定され、子どもにひとりでご飯を食べさせたら罰則が与えられることになれば、孤食も解消されるかもしれない。
けれども、それだけでは問題の本質はなんら解決されない。
孤食の原因はますます両親に、とりわけ母親に向かうようになる。
近年、家族がバラバラだから子どもの心に闇がもたらされる、とか、一家団欒は子どもの心に安定をもたらす、とかいうような学者の「分析」がますます効力を持ちつつある。
勝手に「原因」に位置づけられる母親は、とくにシングルマザーは家族の生活のために必死に働いているにもかかわらず「憲法違反」と断罪される日が来るかもしれない。
孤立無援の家のなかで乳幼児が亡くなる事件があると、いつも批判は社会のあり方ではなく、母親に向かいがちだ。

ニュースを聞いてこみ上げるものが、家族絶対主義によって、個人への批判に落ち着いてしまう社会こそ、問われなくてはならないのに。
このような状況が放置されてきたのは、政治家たちの家族観が懐古的だからだけではない。
むしろ、彼らの懐古的な家族観は時代の先端と相性がいい。
小さな政府は、社会保障費を削るためにも家族のケア力に任せたくてたまらないのである。
改憲草案第24条の新設項目にある家族同士が助け合わなければならない「義務」をもっとも歓迎するのは、非正規雇用を推進する企業である。
「家族は助け合わなければならない」という道徳が法律になれば、論理的には、企業に非正規的に雇われている労働者の賃金が低くてもよくなる。
たとえ福利厚生が薄弱にもかかわらず正規雇用者よりも能力が高いがゆえに仕事が集中しても、それによって生じる問題を憲法の名の下に家族に責任転嫁できるようになるからである。
家族を国家の中枢に据えるという道徳家たちの野望とはうらはらに、家族は経済成長の補助組織に成り下がる。
家族は、その独特の利点も無視され、ただ経済活動がもたらす問題のいわば引き受け装置として期待されることになるのだ。
藤原辰史『縁食論一孤食と共食のあいだ』
どの視点からまとめるか
入学試験というのは、その場で書かされるものです。
どのようなテーマが出るか予測がつきません。
今回のような「家族」の問題はそれぞれの人のおかれた立場でかなり違ったものになるはずです。
例えば両親が共働きの家庭にしても、フルタイムとパートでは明らかに食事の風景も違います。
さらに片親に育てられた人は明らかに、「家庭」というものに対するイメージも異なるものを持っているはずです。
父親だけと母親だけの家庭の場合も、差は当然あります。
家族は、困ったときに支え合う大切な存在であるということは誰もが知っています。
しかし、すべての人が理想的な家族関係を築けているるわけではありません。
介護や貧困などという、家族だけでは解決できない問題を抱えている人も多いのです。

この文章をまとめる時、どこまで自分が想像力を働かせることができるのかという点がポイントになります。
例えば、両親が仕事のため子どもと一緒に夕食を食べられない場合を考えてみましょう。
「子どもがかわいそうだ」などという一般論は通用しません。
問題の本質はむしろ、長時間労働や低賃金、十分な社会保障がないことへ向かわかなければならないのです。
参考文にその視点が示してあるので、そこまではなんとか辿り着けるのではないでしょうか。
さらに日本の現状にも目を向ける必要がありますね。
社会的な問題の負担を母親に押しつけること思想の根源になにがあるのかという大切なポイントなのです。
母親の責任
「子どものことは母親が責任を持つべき」という考え方の背景には何があるのでしょうか。
子育て責任論の基本的な問題です。
1つの例を挙げれば、NHKでは幼児用の代表番組として「おかあさんといっしょ」を1959年から放送してきました。
開始当初はその名の通り母と子が一緒に楽しむための「エンターテイメント番組」だったのです。
夫を職場に見送ったあと、テレビを見ながら家事をする母親にとって、一種の子守り番組でした。
一方で2013年からスピンアウト番組として「おとうさんといっしょ」も始まりました。
現在は月曜日だけ放送されているそうです。
父親をめぐる子育ての状況も大きく変わりました。
男性も、子どもの遊びや育児に積極的に関わるという意味合いを込めて同じタイトルにしたものと思われます。
時代の趨勢です。
背景には子育ては母親だけでするものではないという社会的な認識が広がったということが挙げられます。
保育士が父親のために子育ての具体的な悩みに応ずる番組なども、最近ではみられます。
しかし今も圧倒的に母親向けの番組が多いのが実態です。
さらに孤食の問題なども深刻ですね。

母親自身が生活のために働いている場合、やむを得ないことが多いはずです。
しかしそれでも「母親の努力不足」という個人の問題に置き換えられてしまう傾向が強いのです。
論文のまとめ方としては、家族を大切にするためには、家族が安心して生活できるような社会にすることが喫緊のテーマだということをはっきりさせるべきです。
家族なのだから自分たちで何とかするべきだ、と家族に責任を負わせる書き方は断じて避けてください。
家族絶対主義の問題点は、「家族のことは家族が責任を持って解決するべきだ」と考えすぎることです。
なぜ親は遅くまで働かなければならないのかを掘り下げていけば、ある程度の方向性はみえます。
低賃金と長時間労働の構造、社会、行政の仕組みを可視化させることです。
「両親と子どもが一緒に暮らし、毎日一緒に食事をする」というパターン化された家族像では正解の得られない時代になりつあります。
そこから外れる人を「問題のある家族」の一員と考えてはいけません。
社会保障や福祉を縮小させれば、国は予算を使わずにすみます。
家族にすべてを丸投げしてしまいたがるのです。
この問題は社会の規範とも重なる複雑な問題です。
じっくりと正面から向き合って考えてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
