多様性の本質
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は他人との関係について少し考えてみます。
一言でいえば、他者と適度な距離をとりつつ生きるのが難しい時代になりました。
たとえば、道で困っていそうな人を見かけた場合を考えると分かりやすいです。
簡単にいえば、見て見ぬふりをするか、声をかけて相手の反応を待つケースです。
あなたなら、どちらの立場をとりますか。
迷惑かもしれないから、何もしないというパターンも当然ありますね。
こちらの方が圧倒的に多いような気もします。
しかし適度に踏み込む立場もあります。
何かお困りですかと声をかけることも可能です。
「踏み込みすぎ」ることと「適度な距離」との違いはどこにあるのでしょうか。
ポイントはどういう行動をとるかではなく、もし相手の反応を受け取ったとしたら、自分の行動をその直後に変えられるかどうかというところにあります。
昨今、多様性という表現を多くの人が使いますね。
しかしこの言葉の意味をきちんと受け止めて行動するのは、容易なことではありません。
もちろん他者のケアをすることは大いに尊重されるべきです。

しかしそれが不必要な場合、暴力に近いものになってしまいます。
この判断が非常に厄介なのです。
相手の領域を尊重することを重視しすぎると、相手との関係をその都度つくっていくことまで避けてしまう危険があります。
ポイントは、最初から人との関りには正解がないというという視点から入るべきなのです。
障害を通して人間の身体のあり方を研究している伊藤亜紗さんの文章がありました。
一部を掲載します。
本文
人に「触れる」ことについて気になっているのは、心理的な接触が難しくなっていることです。
相手と自分の間に防波堤のように安全な線を引く意識が高まり、互いに調整して妥協点を探りにくくなっていると感じます。
コロナ禍はその大きな要因のひとつだったと思います。
体に接触すれば相手の緊張や嫌がっていることがわかり、その感覚を手がかりにこちらの出方を調整できます。
しかし体の接触が減った上に、マスクで相手の考えや感情がわかりません。
「この感じでいこう」と一緒に場を作っていく探り合いが難しくなりました。
コロナだけではなく、多様性やジェンダーの問題など、様々な社会的な意識の高まりも、「触れる」ことが難しくなった要因だと思います。
暴力をなくしハラスメントに気をつけるべきなのは大前提ですが、人を傷つけることに対してあまりに敏感になりすぎていないでしょうか。
例えば芸術の授業で学生が作品を発表する時、前口上が長いのです。
「刺激の強い要素が入っていて、傷つけてしまうかもしれないので気をつけてください」などと。

たしかに人の心を動かすことは傷つけることと紙一重ですが、すべてを暴力とくくってしまうと美術作品は成立しません。
いま、暴力への感受性と同時に、ケアへの関心も高まっています。
このことには矛盾を感じます。
ケアとは人の領域に介入することなので、暴力に敏感になり介入が暴力とみなされたら、ケアができなくなります。
例えば困っていそうな人に手を差し伸べようとした時の、ためらいが増えた気がします。
みんなが透明なアクリル板で安全な領域の中に仕切られたような状態だと、ケアの手が入れません。
私は障害を研究していますが、目の見えない知人たちからコロナによって街で声をかけてもらいにくくなったという話をよく聞きました。
介入してみてうまくいかなかったら調整する、ということが許されなくなっているのです。
うまくいかない可能性があるのならやめておきましょうという、ことなかれ主義です。
障害のある人は、人の力を使いながら生きていく専門家です。
防波堤を設けず、人を引き込んだり自分が出ていったりする中に面白さ、豊かさがあるのです。
障害のある人とケアをする人の間の人間関係は触覚がベースです。
とりあえず触ったところから交渉を始めようという世界で、そこに可能性を感じます。
防波堤を設定する生き方は、障害や病気がないからできるもので、期間限定の特殊な状況です。
生まれる時、死んでいく時、体は接触を求めます。
今は障害や病気がなくてもいつかは、うまく境界をなくさなくてはいけない体になっていくのです。
出典:伊藤亜紗 『傷つけるかも 過敏な社会』
防波堤を築く
この文章はとある大学の入試問題に取り上げられました。
問いの内容は次の通りです。
日常の中で私たちが「防波堤」を築きがちになるのはなぜなのか、具体例をあげながらあなたの意見を800字以内で述べなさい。
個人的には「防波堤」という言葉が好きになれません。
しかしぼく自身、知らず知らずの間に多くの防波堤を築いているような気もします。

それだけ他者との関係の構築が複雑で面倒だからです。
最初に考えるのは相手を傷つけないことでしょうか。
それよりも自分が傷つかないことの方を強く意識しているような気がします。
ここで具体例をあげてみてください。
いろいろなシーンが想像できますね。
日常生活の中では、困っている他人の姿が必ず目に入るものです。
心のゆとり
例えば、電車で困っている人を見かけても、なかなか声をかけられないものです。
よほどのことがない限り、黙っているでしょうね。
声をかけたら相手との立場が急に近くなり、難題が増えるととっさに敬遠することも多いはずです。
かつて乗ろうとした電車に、飛び込み自殺をした事件に関わったことがあります。
その瞬間を目撃した女性が突然泣き出したのを、急遽介抱したことがあったのを、思い出しました。
これは理屈では説明できません。
惻隠の情に近いものかもしれませんね。
距離を測るより以前に、そうする以外の行動はとれなかったというのが事実に近いです。
迷惑かもしれないと考え、声をかけるのをためらうというようなレベルではありませんでした。

一方、友人に悩みがありそうでも、「踏み込みすぎないレベル」をかなり意識していることは事実です。
暴力やハラスメントと紙一重だからこそ、難しいのです。
相手の反応を見ながらその後を調整するという、ある種の柔らかさがなければ、他者とは簡単に関われません。
特に、障害のある人との関わりでは、この探り合いが重要になります。
視覚障害のある人が困っているとき、まず「お手伝いしましょうか」と声をかけます。
その後、必要なら手を差し出し、相手の反応に合わせて方法を変えることなどをイメージしてください。
最初から「間違えないこと」を求めすぎると、かえって人と人との接点が失われてしまうような気がします。
防波堤を完全に否定することはできないでしょう。
築くこと自体はある意味自然なことです。
問題はその後、必要に応じて行動する柔軟さがあるかないかなのです。
傷つけないための距離だけでなく、関わりながら互いに調整していく関係も必要なはずです。
人と関われば、どうしても相手の期待に反することがあります。
助けようとして断られることもあります。
その時は静かに身を引かなくてはなりません。
大切なのは、間違えないことではなく、間違えたときに修正できるかどうかなのです。
相手の反応を尊重しながら、必要なときには一歩引いたり、踏み込んだりするだけの心のゆとりがどこまでも必要になる所以なのではないでしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
